Jeffrey

ワン・フルムーンのJeffreyのレビュー・感想・評価

ワン・フルムーン(1991年製作の映画)
3.8
「ワン・フルムーン」

〜最初に一言、ここまで月に魅せられた映画は無い。間違いなくウェールズ(英国)映画の最高傑作。日本で初めて公開された島国英国のウェールズの寒村で起きた少年の殺人と少年の自殺までの過程を様々な人間関係と貧困、宗教で捉えた作品で、この悲劇と狂気が日常茶飯事に起きている作品がVHSのまま今も埃をかぶって知られていないのが非常に残念だ。まさにこの作品は古代ケルト民族の伝説を交え、湖と言う幻想的な風景とともにくり成される子供の恐怖感を抉った傑作だ〜

冒頭、聖なる悪戯に憑かれた少年の罪。それは決して癒される事のない狂気の呪縛。病んだ心、近親相姦とレイプ、満月の夜、汚れた母、ウェールズの美しい山々、大自然、そして天使。今、少年はなぜ少女を殺したのか…本作はキャドラック・プリチャードの小説をもとに実際にあった事件を題材にした話を映画化したもので、スティーブン・キングを超えたミステリーサスペンスの傑作と言う謳い文句に惹かれてビデオを購入し、初鑑賞したエンダヴ・エムリンが1992年にイギリスで監督した2作目にしてウェールズ映画の最高傑作とされている作品が、日本国内ではVHSしかない為、なかなか見ることができない隠れた名作だが、この度VHSで観たが素晴らしい。どうやら彼は「山の焚き火」のフレディ・M・ムーラーや「白い町で」のアラン・タネールらと並ぶ本格派の映像詩人として全世界にその名を知らしめていたそうだが、私は今回初めてこの作品でエムリンを知った。もちろん「山の焚き火」は山トリロジー特集などで知っていて私の好きな作品である。



さて、物語は男が1人、狭い部屋の洗面台に向かい、まるで犯した罪を清めるかのように、静かにゆっくりと手を洗っている。やがて、監獄の重い扉の響きが男の出所を伝える。数日後、男は満月の冷たい光の中を、ウェールズ北部の故郷の村へ帰ってきた。今は廃屋となった小さな小屋は、母と2人で暮らした少年時代の住まいである。埃まみれたー家の中から、男の過去への旅が始まる。少年が窓辺に立って、高く昇る満月を見つめている。聞こえてくる母の歌声。こんな月夜に神様の声を聞きたいの?優しく寄り添って眠るベッドの中で母子が交わす会話はいつも、信仰を唯一の支えとする母の影響で、神様と天国と死による救いの話なのだ。

ある夜、村で大騒ぎが起こる。知恵遅れの男が、森の中で少女ジニにいたずらをしたと言われ、警察へ連行されていく。恐怖に立ちすくんで見つめる少年。採石作業で生計を立てるこの寒村の人々は、荒涼とした風土の影響かどこか荒々しく、常軌を逸している。友達の母親とおじいさんはナイフを持ってつかみ合いの喧嘩をし、後におじさんは自殺してしまう。様々な出来事が、繊細で鋭敏な少年の心を脅かす。中でも、少年の恐怖と好奇心の対象は、鋳掛け屋のウィルだった。精神病で浮浪者めいたこの男は、子供たちの格好の標的。からかわれている最中に発作を起こして気絶し、少年たちを驚かせる。ある日、川で遊んでいる最中に、受難の日を告げる教会の鐘の音を聞き、自分の手にピンを突き刺す友達を見た少年は、いい知れない恐怖にとらわれて倒れる。

数時間後にベッドで目覚めた少年はつぶやく。復活の日のキリストの気分だ。洗濯女として母が仕えていた司教が死んで、2人の暮らしはさらに貧困するが、母はそんな中でも息子を牧師にする夢を抱き続け、少年のいたずらを戒める。友達と一緒に見に行った拳闘試合の広場で、少年は鋳掛け屋のウィルに追いかけられる羽目になる。急いで逃げ帰った家で見たものは、暴行の跡も痛々しい母の取り乱した姿だった。以来、贖罪を熱望するあまり母は精神に異常をきたし、少年は叔母の農場に住むことになる。母親への思いから少年の神経はさらに鋭敏さを加え、気を失うたびに生々しい天使と対面するのだった。やがて、母の病はさらに重くなり、とうとう少年が精神病院に送って行かなきゃならなくなった。

扉の向こうから、裏切り者と母が叫ぶ。母の服と結婚指輪を持って家に帰った彼は、むせび泣くしかなかった。罪の意識にさいなまれながらも、暮らしの道を考えなければならない少年は、採石場に職探しに出かける。その帰り道、彼は森の中で少女ジニに出会った。湖のほとりでジニに誘惑された少年は、発作的に彼女の首に手をかけた…。湖のほとりにたたずんでいた男は、やがてゆっくりと歩き出し、静かにその身を水中に沈めていた…とがっつり説明するとこんな感じで、厳しい自然が無垢の美しさを湛えたウェールズの荒野を舞台に、繊細で純粋な少年の危うい心の軌跡を、幻想的な映像で描いた隠れた名作である。正直VHSしかないのに驚く。ウェールズ語の映画として、英語字幕でイギリス公開されて絶賛を博したそうで、その後ヒューストン、シカゴその他各地の映画祭で数々の賞を総なめにしたそうだ。日本では銀座テアトル西友他全国劇場公開で大ヒットしたそうだ。

いや〜、冒頭のシークエンスから幻想的で吸い込まれるような神秘の力に満ちた映像描写で非常に良かった。やはり妖しい満月が現れると悲劇の予感が絡んでくるのはどの映画も似ている。この作品自体は長い刑期を終えた男が故郷の村へ戻って、満月の夜に家に着くと、少年時代を思い返して悲痛な過去を再び手繰り寄せていく映画で、やがて不可解な少女殺しへと観客を誘う内容なのだが、信仰の象徴や儀式に魅了されていく少年の危うさや天使が手招きするどこかしらグロテスクな描写と、冒頭の石切場の岩壁が爆破の轟音とともにオレンジ色の炎を噴出して崩れ落ちる映像は記憶に残る。それから村人を囲い込むウェールズの大自然の圧倒的景観も、この作品の魅力の1つで、自然光を基調とした光と影を捉えている撮影は見事なものだ。

無邪気に友達と遊び、聖書を読む少年の描写、死への憧れと恐怖との間を揺れ動いている孤独な感じだとかヨーロッパ的に最も美しい風景の1つと言われているきたウェールズのスノードニアでの撮影は完璧である。緑の森、雨雲が低く垂れ込める感じや寒色系の映像作りがどこかしら不穏な空気を常に漂わせ緊張感を途切れさせない。それから少年少女が川を渡るときの清らかな水の音、高地に広がる農場の佇まい、神秘的な湖と山並みなどは圧倒的である。日本で言うと北陸を舞台にした寒村映画を見ているかのような感じで、天使の鮮烈な姿と空から静かに降り積もる羽毛。それらの夢と幻想が不可思議な現実感を与えていて、幻惑的な仕掛けに成功したファンタジー作風だと思う。それにしてもイングランド島で最も高い山はこのウェールズのスノードン山なのだが、この地の住民はその昔にアングロサクソンによってイングランドから追われ、この地にいわば囲いこまれた歴史がある。



像の天使は可愛らしい少女なのだが、現実に現れる(といっても少年にしか見えない)祖父の天使で、この天使は少年を追いかけ回す厄介者であり、少年の心理に発狂感覚を与え続けている存在だ。まさに西欧キリスト教絵画の最後の晩餐をここに取り入れた感じがする。メソジスト教キリスト教徒が絶対多数派のウェールズで、少年の母親が英国国教会の教会へ通っていると言う設定も凄い(敵対してきたアングロサクソンの宗派を信仰する事は裏切りだろう)。ところでこの作品オールウェーズ語でセリフが言われているが、英国では字幕がついたのだろうか…。ケルト系音楽がすごい好きな自分にとって、民間伝承で、想像力豊かなケルト系民族の地を舞台にした作品を見れてなんだか嬉しく思う。そういえばイギリスのチャールズ皇太子がプリンス・オブ・ウェールズとその名を冠した紅茶もあったな。

この映画結構宗教色が強くて、感受性豊かな少年が無邪気な日々を送りすぎるとトラウマ的なものが植え付けられ、邪悪な何か得体の知れないものに憑依される感じが個人的にはするが、特にベッドの上で母親が神様や天国についてひたすら語っているのはー種の洗脳教育的な感じも今ならそう思えてしまう。その母親が裏切り者と言葉を言い放つ場面では、息子の少年に言っているのかそれとも信仰していた神に言ったのか、そもそも彼女の旦那は現れないし、少年の父親像が全くこの映画では浮かびあがらず、何も説明されないまま終わってしまう。いわば未特定の映画である。なぜこの子供が生まれたのか、母親が誰にレイプされたのか、少年はなぜクライマックスにあの娘に殺意を抱いたのかと言うものが解決されない。ただ最後に〇〇が水中に沈んでいく描写に月の冷たい光が当たっているのが何か意味をもたらすのか、色々と考えたが答えは出なかった。

ウェールズと言うのは面積は四国よりちょっと大きい位で人口は300万人もない。紀元前のヨーロッパ大陸を席巻したケルトの民が、外民族(ローマ人、アングロ=サクソン人等)に追われ追われて最後にたどり着いた西のヘリの1つである事は有名な話だ。大ブリテン島のその隅っこにそびえ立つウェールズは独立国家ではない。近年ではスコットランドが独立を唱えているようだがわウェールズにもそのような声は起きているのだろうか、少し気になる。独自の語源文化を保ってきた山々に囲まれたウェールズの文化に触れられる映画でもある。この映画を見る前でも後でもいいのでウェールズについて個人なりに色々調べてみるといいかもしれない。かなり昔に観たヒュー・グラント主演の95年の「ウェールズの山」はすごく勉強になる映画だったと記憶しているのでそちらもオススメ。

そもそもウェールズはイギリスと言う英語圏の中のマイノリティー地域で、住民の母語はウェールズ語と呼ばれ、スコットランド高知地方やアイルランド西部で話されているゲール語、フランスはブルターニュ半島のブルトン語などと同じケルト語派に分類されているのは、なんとなくわかる。劇中で少年が英語であるソサエティをソキエティと読んで笑われるシーンは、このような言語の壁があることを知らしめる。そもそもイギリスのケルト系先住民の言語から分化したものであるのがウェールズ語であって、西暦7世紀、アングロ=サクソン人がイングランド占拠して以来、ウェールズはケルト人の最後の牙城だった事は有名な話だ。しかし独立が続いたのも16世紀までで、チューダー朝のヘンリー8世の時イングランドに合併される。現在のウェールズは、したがって、行政的にはイギリスこと連合王国のー部である。首都はあれど議会や法律は無いそうだ。国用語は一応、英語とウェールズ語だが、ウェールズ語の使用者は年々減少し、今では全人口の20%位と推定されているみたいだ。

日本も島国だが、イギリスも島国であり、ウェールズは海の国でもあると言われている。3方が海で、北はスランディドゥノーを代表格に高級リゾート地を抱えて南は近海漁業の漁港が連なる。リバプール、ブリストルといった国際港も近く、海に出るものは多いとのこと。そして何よりも、人々は海の彼方に憧れて、初めてアメリカを発見したのはウェールズ人だと言う伝説があるそうだ。1170年北ウェールズのマドックと言う王が航海に出て、新大陸にたどり着いた。300年後コロンブスがやってきたとき、原住民の中にウェールズ語によく似た言葉を話す者がいたと言う。と、話が脱線してしまったが映画に戻すと、時代設定は20年代から50年代と考えられて冒頭のシークエンスは主人公が精神病院または刑務所から出所したと言う曖昧な監督の意図的な思惑を感じてならない。また先ほど父親の存在が現れないと言ったが、逆に言えば登場人物の人間関係を見ると少年には複数の父親ではないかと言う疑いがかけられる人物が多数出てくる。それはここで誰かとは言わないが、ー連の悲劇的な事件が起こる湖に導く結果へとなる。

この作品いささか個人的に問題があるなと思ったのが、少年の自殺の場面というか自殺そのものである。何が言いたいかと言うと、事件を起こして罰せられる時に、最も魅力的に思われるのが生よりも死であると言うことを言わんばかりの演出を個人の意見で言わせてもらうと感じてしまったのだ。そもそも少年は母親を非常に愛していて、裏切ったと言う思いにひどく苦痛を感じていたと思われ、彼は罪の意識と後悔の念に引き裂かれている自分が耐えられなかったように感じ、自殺行為に至ったと思われる。なのでこのような社会においては自殺は唯一の逃避であることを感じてならない。まぁ少年は自殺の妄想に浸かっていた場面も一応あるが、死と言うのが救いのメカニズムであることをわかっていたような気もする。この映画一見、異常で痛々しいグロテスク・ファンタジーのように見えるが、よく観察すると結局子供の日常(普遍的な)が描かれており、そこには過激な暴力だったり押し付けがましい信仰だったり、不思議な事柄、少女による性への誘惑だったり、母と子の対立だったりそういった道徳律的な内容が含まれている。

少女による性の誘惑と言うと、やはりあの少年は誘惑されたことによって彼女を殺してしまったのだろうか、また近親相姦的な感じで生まれた少年だったのだろうか、どこかしらヘンゼルとグレーテル的な雰囲気を醸し出すこのようなスキャンダラスな内容に含んだ映画ではあるが、色々と考えさせられる、というか非常に重い内容だなと改めて思った。登場してくる子供たちがどうしても「ブリキの太鼓」の主人公であるオスカル君とダブって見えてしまった。それはきっと醜い大人になりたくないと言う精神が映像と言うフィルターを通して感じたからだと思う。どこか未知の世界、別世界を見ているかのような、意識がそちらへ誘導されてしまうような、映画に支配されてしまうような、満月の誘惑に観客は確実に堕とされる。でもこの映画は主人公にとっては喜ばしい(そう言っていいのかわからないが)選択だったのかもしれないが、我々観客からしてみれば彼にとって救済の道は死しかなかったのだろうかと言う悲しい結果に終わる。

まぁとにかく火は最初の冒頭の大爆発のシーン以外は出てこなかったため神秘主義を全て取り入れているとは言えないが、水や月と言うイメージが強かった分、どこかしらタルコフスキー(旧ソ連の偉大な作品)を彷仏とさせる草、木、川、野、霧にみちる自然が非常に素晴らしかった。とにかく早く円盤化してほしい。気になる方はぜひ見てみてはいかがだろうか。
Jeffrey

Jeffrey