人生は死ぬまでの暇つぶしというマインドで、死へと近づくスリルにハマる若者。
死そのものというよりは、死に近いものを描こうとしているのではと考えると、ドキュメンタリー風、あるいはPOV風に撮影することで、作中世界に存在しないはずなのに存在感を放つカメラマンの存在もゴースト(死に近いもの)と捉えることができる。
スケボーに乗り、身体は浮遊して歩くことなく移動する少年という絵もどこかゴーストを想起させる。
フルフェイスヘルメットが演出する無顔性もそうだ。
積極的に死に近づこうとする不良よりの少年少女と比較して、主人公のコウは死から逃れようと足掻く。母親の葬式を巡る記憶の混濁は死から逃れようとした足掻きによって生じた不整合と考えられる。
その記憶に新垣が登場するのは、コウにとって最も死に近い存在が彼だという認識があるからなのかもしれない。母親の死から逃れようとする後ろめたさを和らげるために、死に近い者の隣にいようとした(ことにしたかった)のかも。
死と戯れることで生を挑発してみせる新垣を前に、私もまた、まだ嘔吐することができる生者であると再確認させられた。