カラン

ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワーのカランのレビュー・感想・評価

3.5
ニナ・メンケスは男が女を性的に搾取する映画の特性を説明するのに、①主体/客体(subject/object)、②フレーミング(framing)、③カメラの動き(camera movement)、④照明(lighting)、⑤物語上の位置づけ(narrative position)という項目を挙げる。この①~⑤は簡単な説明がなされるが、その例証に挙げる映画作品は大量であり、ほとんどは細切れの引用である。解説者やインタビュイーは9割以上が女であるが、大スクリーンのあるステージパフォーマンスの際には大学生らしき若者が客席におり、彼らは男も入り、神妙な顔でニナ・メンケスの主張に同意する。

☆映画監督の作る映像か?

その映像は24pではなく、インターネット動画によくある人物がぬらーっと動く糞である。こういう場合、フィルムレート変えるって、真実味をなくすわな。さらに、わざわざ劇場でやるのにネット動画のレベルの映像で、ハードな映画を細切れに裁断したうえで一面的な解釈を押し付けてくる。おまけに、「私もやられた」という被害者の声や「やっぱりな。こういうのはおかしいよ。」という調子の大学生のアネクドータルな証言動画を垂れ流す。論証ではなく、「洗脳」だろう、このやり方は。男によって世界は洗脳されているのだと、フェミニズムという大義を冠した洗脳によって、説明したいらしい。

☆フェアじゃない

フェミニズム云々の前に、映画に対するごく当たり前の敬意が不足していないか?そのくせ、どう観てもタルコフスキーの『鏡』を丸パクした自作のシーンをいきなり映して「タルコフスキーへのオマージュです」って、それが性的搾取とどう関係するんだ。丁寧に論証を重ねるべきところで、剽窃した自作を上映するってどういうこと?女を空中浮遊させるショットを女が撮ると、パクリじゃなくて、フェミニズムになると勘違いしてないか。

これはフェアじゃない。しかし、フェミニズムの立場からするならば、フェアでないのは男たちのほうだ!ということなのだろうから、性急な説得の仕方は暴力的であるし、ありきたりで安っぽいディスカバリー系の映像にチケット代を払うのにも全く我慢がならないが、仕方がないとしよう。

☆女たち

今回、フェミズムのドキュメンタリーであるので、女性2人に同行してもらった。1人目は20代後半のノンポリ系の自称・平和主義。もう1人は大学院でフェミニズムに開眼したという自他ともに認める40代後半のフェミニスト。まず女性2人の見解から紹介しようと思うが、酒を飲みながら話を聞いたのもあって、断片的である。

①ノンポリ・平和主義の女:勉強になった。けど、男の眼差し(male gaze)によってショットが動機付けられている映画がイデオロギーの伝搬装置になっている云々といった調子で、自分は映画を観ることができない。ただ(全体が)面白かった、とか、面白くなかった、としか感じられない。(本作が)言いたいことは分かるし、(ニナ・メンケスは)言いたいことをたくさん抱えている女性なんだなと思った。

②ザ・フェミニスト:そんなに新しいことはなかったから、最初、展開が遅いなと思ったけど、間違ったことを言っていない、なかなか面白かった。(タランティーノの映画で)女のお色気シーンをストーリーに関係なく挿入するのとかは、やっぱりよくないと思った。(男の監督ではなく、女の監督によるお色気ショットならば「許す」みたいな話になってしまっていないか?という私の問に対して)ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』を(劇場でかつて)観たときは、そこ(=女が男の眼差しmale gazeを内面化して、女が女のポルノグラフィを映画にするという点)は気づいていなかった。(フェミニズム系フィルム・スタディーの観点では)ソフィア・コッポラでもダメなんだね。(フェミニズムの理論的前提を問おうとする)あんた(=私)はフェミニズムの被害者かなんかなわけ?アンチ・フェミニズム野郎~とかって誰かにいじめられてるの?草 

雑なまとめだが、女性陣は本作を楽しんだようである。私は納得できない点が多々あり、かなり苛々したのだが、本作の目的がフェミニズムであり、女たちの幸福を促すものであり、本作を観てとりあえず女たちが楽しい気持ちになるのであれば、その点に関して悪くない評価をするのはやぶさかではない。





☆2点、とても、とても気に入らないこと

①映画愛好者として

ゴダールの『軽蔑』の冒頭は、ブリジット・バルドーの尻のクロースアップ(=性の道具としての寸断された身体像)を、暗がりで(=閨房の照明)、撫でまわすようにゆっくりパンで身体をなぞり(=エロチックなカメラの動き)、横たわる女(=男のまなざしmale gazeの対象object)を映した後でカットすると、ドリーレールに乗ったカメラと撮影監督が出てくる。ニナ・メンケスによると、このカメラは女を性的搾取する男の眼差しを増強し正当化するイデオロギーの装置として作用するようである。女を男は、この映画が今まさに映し出している撮影用のカメラのように、眼差すことが可能であるし、そのように眼差すべきなのである、という男の願望を拡大する声としてこの映画はイデオロギー的に機能するのだと言っているのである。

しかし、こうした理解は映画鑑賞の素人が、映画の一部分を切り取ってきて、ドキュメンタリーフィルムの中で被害妄想を開陳しているということの実例なのである。ゴダールがこの映画で撮影監督のラウール・クタールと撮影用のカメラを映しているのは、観客が観ているのが映画の映画であるということを教えるためである。イタリアの撮影所であるチネチッタで映画の撮影をしているということを示すため。なぜなら、映画についての映画だからだ!だからフリッツ・ラングが出てきて、その助監督役にゴダールが出演するのが、なんで女性搾取をオーサライズすることになるんだ?

それはまた、地球全体に広がるハリウッド的なものの外部をなんとか見出そうとする斜陽のヨーロッパ映画の試みなのであり、さらには、当時の妻で女優のアンナ・カリーナとの確執をストーリー上でトレースすることで、ヨーロッパの映画であると同時にゴダールの妻への愛を描く私小説ならぬ私-映画となるのである。

この映画のカメラが女を物象化する男の眼差し(male gaze)の象徴であると解釈するニナ・メンケスは、この映画のカメラが、女を搾取するべくそそり立つゴダールの真っ黒の一物に見えたついでに、ゴダールに悪意を投射して女性差別だとあげつらうのは異様な被害妄想である。映画においてゴダールをやっつけるというのは、大変だがやりがいのある挑戦だろう。しかし、彼女にはその準備がさらさらない。


②フェミニズムを応援したい者として

ニナ・メンケスは、男の眼差しが、女を支配することで、女の監督もまた女性蔑視的な視点を持ってしまう、という趣旨のことを述べている。それは別に彼女が考え出した新しいことではない。女の身体を男の眼差しの引力から離れて撮影するにはどうしたらいいのか。どうしたら女の主体性を回復する映像を作れるのか?しかし、この世には女の主体性は存在しないとでも言わんばかりに、どの映画も男の主体性を映し出し、女たちは疎外される。

それで、ニナ・メンケスは性行為において疎外される女の映画で妹に出演してもらうことにしたらしい。男にのし掛かられて、女が無表情で突かれるショットを自己引用する。こうした性行為において男の支配と暴力のために、疎外されて、物になる女を映し出すのが、フェミニズムの映画なのだろうか?

ところでそういうショットがふんだんに盛り込まれた映画を最近観た。『(秘)色情めす市場』(1974)だ。そのショットを監督名を伏せて、比較したとしよう。ともに女の物象化を表現している。どちらがフェミニズムに適ったショットであり、どちらが性暴力なのか、どうやって区別するつもりなのか?局部のクロースアップと馬鹿みたいな体位があるかないか、だろうか?それがフェミニズムと性暴力の違いでいいのか?

こうしたことの違いをフェミニズムは語る必要がある。女の裸を見境なく性暴力呼ばわりしても、女たちの幸せに繋がるわけではない。違いをきちんと定式化して、ダメなものを排除しなくてはならないはずだ。これはしばらく前から自分の中で燻っていた問いなのだが、ニナ・メンケスには荷が重かったようだ。



久しぶりにヒューマントラストシネマ渋谷に行った。変形で、5列目の真ん中にしようとしたが、さっぱり。スクリーンは小さくて、上過ぎ。音も前に張り付いていて、出てこない。全てのレベルが低すぎる。劇場が配信に食われるのも仕方がないと思えた。
カラン

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