ShuheiTakahashi

月のShuheiTakahashiのレビュー・感想・評価

(2023年製作の映画)
4.4
言葉を交わせるかどうか。
それが心があるということなのだろうか。
人が生きていくうえで、誰かと話すこと、それは凄く大切なことだと思う。
誰かと話すこと、話し合うこと、向き合うことで、救われるものがある。
それは劇中、オダギリジョーと宮沢りえ演じる夫婦もそうだった。
お墓の前で、リビングで、そして回転寿司屋で。
それが難しい人たち。
劇中では障がい者の一部の人たち。
話せるか話せないかで、心のあるなしを判断して殺していく磯村勇斗演じるさとくん。
さとくんはきーちゃんの心の中の言葉を書こうとする洋子に対して、それは独善的と言う。
それはそのままさとくんに返ってくる言葉だった。
話せないから心がないというのもまた独善的だ。


障がい者たちを殺していいとする理由として、ゴキブリが出たら殺しますよねという言葉が悲しかった。
殺すものとしてゴキブリを出すのが悲しかった。
私は絶対に殺さない。
私はヴィーガンで動物も食べないし、使わないし、買わない。
でも植物は食べる。
その線引はなんだろう。
何かしら食べなくては生きていけないから食べている。
少しでも命の犠牲や搾取を減らしたいからだ。
植物に心がないから殺して食べているわけではない。
さとくんの主張は理解できるところもある。
だが、殺していい理由にはならない。
動物を食べる人は植物も生きているからといって動物も植物も食べる。
植物が生きていることと、動物を食べることに繋がりはない。
動物を殺して良い理由にはならない。

さとくんは重度の障がい者は話せないし生産性がない。
負担ばかりかけて、周りを不幸にしている。
本人たちが幸せだと思いますか?
一度も気持ち悪いと思ったことありませんか?
と言う。

幸せかどうかはわからない。
もし自分が重度の障がい者で寝たきりだとしたら死にたいと思うかもしれない。
小学生の頃、よだれや鼻くそ、鼻水垂らしていた障がい者の同級生に鼻くそつけられて汚っと思ったし、気持ち悪いとも思った。
だが、殺していい理由にはならない。
ゴキブリも汚い、気持ち悪い、菌がある、害がある、という理由で殺していいわけではない。

殺していい命と殺してはいけない命の線引はどこにあるのか。
何を基準にしていいのか。
そんなものはない。
殺していい命なんて存在しない。
すべて殺してはいけない命ばかりだ。
それでも生きている限り、命を殺している。
私は植物を殺して生きている。


さとくんは嘘ばかりの現実がわからなくなり、現実を生きるために現実を壊す。
洋子は小説を通して、嘘の中の現実、本当を探そうとする。
陽子は嘘を嫌い、嘘よりも現実を嫌い、嘘をつき続け、自分を誤魔化して生きていく。
洋子のパートナーは、現実から嘘をつくり、その嘘を糧に現実を生きようとする。


欺瞞や嘘、綺麗事、それらは本当に嘘でしかないのだろうか?
本当や見えなくしているもの、隠蔽されているもの、は暗くて汚いものなのだろうか?
嘘の中にも本当はあって、欺瞞の中にも美しいものはある。
本当の中にも美しいものはある。
隠しているものの中にはあたたかい心もあるはずだ。
これは綺麗事だろう。
綺麗事でも構わない。
綺麗事の中にも、本当に綺麗なものはある。
 
劇中、カーテンを閉めたり、ドアを閉めたり、見ないようにする、目に入らないようにする描写がよくある。
また、窓のシールが剥がれたり、月の絵が剥がれたりする描写も。
汚いものには蓋をして、見えないようにしていても、それは溢れて剥がれて、光が当たる。
その時に見たいものだけ見るのか、見えるものだけ見るのか、見えるものの更に奥深いところに手を突っ込むか、見えないものを見ようとするのか。
月は太陽の光に照らされることで、光って見える。
私達が見ている月は月の一部でしかない。
また月は昼間もずっとあるが、私達には見えない。
見えているもの、見えないもの、と向き合うということ。

物質は光が当たることで存在を視認できる。
光が当たらないもの、見えないものは存在しないということなのか。

今、生きていて、障がい者の存在を常に考えながら生きている人は少ないだろう。
私もその一人だ。


重度の障がい者に対する接し方や、施設の異常な暗さ、障がい者たちが劇中でただの役割になっている感じがして、最初は違和感があった。
演出のしすぎではないのかと。
光が当たる場所と、暗闇に包まれた場所。
隠されたものと、剥がれて見えてしまうもの。
露悪的とも言える演出の中で、でもこれこそ、劇中でも何度も言及された嘘なのかもとも感じた。
この嘘の中にある現実、本当に向き合わなければいけない。
洋子が小説を通して、嘘の中の本当を探したように。
見えるものだけで判断してはいけない。
終わり方も結局は愛なのかと陳腐さも感じたが、それだけではない気がした。
愛してるという言葉に辿り着くまでが大事なのだ。
見えたものだけ、目に入る部分だけで判断するのはSNSなどで、批判に精を出す人たちに似ている。
そしてSNSで批判をする人たちに対して、この人たちに何言ってもだめ、何も変わらないと思う私も同じように見えるものだけで判断しているのかもしれない。
ShuheiTakahashi

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