ShuheiTakahashi

ありふれた教室のShuheiTakahashiのレビュー・感想・評価

ありふれた教室(2023年製作の映画)
4.0
証明か主張か。
ノヴァク先生は所謂デキる先生ではないかもしれない。
けれど、自分なりにブレずに、いやブレながらも、生徒たちに対して真摯であろうとしていた。
学校の在り方や同僚、学校新聞の子どもたちに終始イライラしていたが、ラストシーンでノヴァクとオスカーは2人なりの答えを出せたと思う。
周りが敵にしか見えてなかったオスカーに対して、ただそばにいることで、敵ではないと証明したノヴァク。
そしてそれを汲んで、ノヴァクから渡されたルービックキューブを完成させて返す。
自分を殺さなかったオスカーは、これから先、たとえ転校したとしても、学校に残ったとしても大丈夫な気がする。
学校は悪いことを正すところではない。
ただ居場所の一つとなれたらいいのかもしれない。

落下の解剖学でもそうだったが、最後まで確かなことは明かされない。
誰もがあやふやな情報で判断する。
断片的な情報や噂、記事に書かれた言葉、与えられたものを自分の中で繋ぎ合わせて、勝手に判断する。
そして批難する。
悪いことをしたら、批難してもよい、責めていい、と勘違いしている人ばかり。
悪いこととはななんだ?
それすらも誰かが、常識が、普通が、法律が、社会が、勝手に決めたモノサシ。
判断する根拠そのものが危ういものなのに、それを確かなもの、絶対的なものだとする。

盗むことはなぜ悪いのか?
カンニングすることはなぜ悪いのか?
噂話で決めつけることはなぜ悪いのか?
物を壊すことはなぜ悪い?
殴ることは?

子どもにも自意識や自我があることを認め、一個の人間であるとすることには共感できた。
しかしそれにより、大人も含め、それぞれ自分自身を信じすぎ。
自分自身を信じてるわけではないか。
正しいと思い込みすぎ。
間違ってない、間違えないと思い込みながら、他に責任を求めていた。
誰も自分のせいだとは思わない。
絶対的に自分が正しい。
だから簡単に他者を責めることができる。
最後、主人公とオスカーは自分を省みることができていた。
対話は他者とも必要だが、自己とも必要だ。
そして判断するのは自分だけれど、意見を聞くことも大切だ。
信じることは思考の放棄。

正しくあることを求められる教師だからこそ、何を信じ、何を疑うのか。
子どもたちにとって、どういう人間であるか。
悪いことすんなって言ってんじゃないの
ダサいことすんなって言ってんの。
この言葉に尽きるかもしれない。

オスカーの母であるクーン。
仮に盗みをしていないとして、対話しようとせず、息子にも何も話さないのはダサすぎるよ。
保護者会で一方的に言いたいように言ってさ。
雨の中、学校の前まで来て、教室まで来ずに、息子に電話して、ダサすぎるよ。

オスカーは母と決別というか、ある種の線を引いてしまっただろう。
ShuheiTakahashi

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