黒沢清が作りたいように作った短編映画。
ジャンルとしてはホラーになる筈だが、お化けが出てくるわけでも、殺人鬼が襲ってくるわけでもない。
が、怖い。メチャクチャ怖い。
全シーン全カット怖い。
鑑賞後はポスターすら怖い。
これは持論だが、恐怖は不安から、不安は僅かな違和感から生じるものだと思う。(この考えの背景には、少なからず黒沢清の過去作品の影響がある)
映画内におけるアクションには何らかの意味や意図がある。たとえば誰かが道を歩いているカットがあったとして、急に振り返れば、カットが切り替わってその先にある何かを映し出すか、何もない空間を映すか、あるいは一旦保留して最も効果的と思われるタイミングでその理由を明かすか、といった見せ方が一般的だ。
しかし本作では、そうした種明かし的な演出は一切なされない。
それら小さな違和感は単体ならどうってことはないのだが、そうした瞬間だけが数珠繋ぎになると見ている方はかなり不安になるし、それが恐怖へと形を変えるのにさして時間はかからない。
吉岡睦雄が橋を渡る途中でおもむろに駆け出す場面で、鳥肌が立った。
本作では多くの場面において、1カット内で人が正気を失う瞬間と取り戻す瞬間とが同居している。ここで最も恐ろしい事実は、「そのどちらが正気であるかは誰にも分からない」ということだ。
虚ろな瞳で「チャイムの音が鳴り止みません」と誰かが言うとき、誰しもが「コイツやべー奴だな、距離置いとこ」と思うだろうが、実はその音はみんなに聞こえていて、気づかないフリをしているだけなのかもしれない。
今でも忘れられない衝撃的な「CURE」のラスト。あれから随分と年月が経ち、世界は更に深い混沌と狂気の只中にある。
包丁なんか持たなくたって何が起こるのか伝わるようになってしまったのは、そこに至るまでの演出的な積み重ねの結果であることはもちろんだが、"そういう時代になったから"だとも言える。
「CURE」をも越える恐怖の傑作「Chime」は、黒沢清と現代社会の共同作業によって生まれたのだと思う。