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市子のbluetokyoのレビュー・感想・評価

市子(2023年製作の映画)
3.6
港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカみたいな感じか、話の流れは。最初から中盤までは、登場人物が、喚いたり泣いたりで、置いて行かれるというか引いてしまうのだが、最後になってようやくなるほどと納得する。ストーカー男の北秀和が、置いてけぼり男の長谷川義則に、お前は市子を支えてやれない! とえらい剣幕で言い張るが、この言葉は、はったりでも思い込みでもなかったわけだ。結局のところ、市子は「普通の生活」を送りたかったのである。

この映画で取り上げられているのは、無国籍な人である。ある特定の条件にはまってしまうと国籍を取得できないままになってしまうらしい。たとえば、日本に滞在している外国人ではなく、日本人でも、そうなってしまう場合があるのだ。もちろん、無国籍が判明した時点で、改めて、国籍を取得するという手段はある。

だが、もちろん、この映画は、無国籍になった人の行く末を辿るというドキュメンタリー的な作品ではない。

市子の際立つキャラとして見られるのはサイコパスだ。無国籍は、一つの原因にはなっただろうけど、無国籍な状態に陥った人が、かならずサイコパスになるのだ、ということではないし、そんなことを、この映画は言っているわけではない。

たとえば、小学生のころのこと、市子は、同級生の女子を男子のいじめからかばってやったお礼として、その女子の家に招かれた。市子は、隙をみて、すぐにテーブルの上のお菓子をポケットに入れるのだ。また、市子は、お返しとして、どっかで万引きした商品を渡そうとしたりして、気味悪がられたりする。
なぜ、市子はそうしてしまうのだろう。おそらく、その女子は裕福そうなので、かっぱらわなくても、頼めばお菓子ぐらいもらえるわけだが、市子は、そんな立場ではないと思っているのだ。万引きしてでも、お返ししようとするのは、おカネがなくて、お返しできないという立場ではない、と思っているのだ。

最初の恋人、田中宗介と疎遠になったのも、田中宗介が家族ぐるみで付き合いたいと言い出したからだ(ストーカー男、北秀和をとっちめるのもそのためかな)。家族ぐるみと言われても、無国籍の市子には、そんな普通な家族などないのだ。だが一方で、普通の家族の中にいるはずだと思い込もうとしている。であれば、田中宗介と別れるほかないのだ。

難病で寝たきりで介護を必要とする義理の?妹、月子を殺害するのも、月子の存在が、普通の生活の妨げになるからである。

置いてけぼり男の長谷川義則が、市子と3年間、同居しているにもかかわらず、市子の身辺について、なにも知らないというのは、うっかりしていたからではなく、市子自身が、そもそも、そういう性格の人間としか付き合えないからだ。たしか、一緒にケーキ屋を開店させようとしていた女性も、天真爛漫すぎてプライベートなことをなにも聞いてこない人、ということだったはずだ。

こうして、普通の生活に取り付かれた市子は、ますますサイコパスになっていくのだ。

では、なぜ、そんな市子に、北秀和、長谷川義則、あるいは、田中宗介が惹きつけられたのであろう。それは、市子が死に物狂いで目指していたものが、ごく普通の生活だったからだ。一見すると、そんな普通の生活でいいなら、簡単に提供できるよ、と思ってしまう。

だが、このごく普通の生活を成り立たせるというのは、まったく普通ではないのである。この映画で出てくるのは、国籍である。法的な存在証明があって、初めて普通の生活が成り立つのだ。
あるいは、また、ある程度の経済的な余裕なんていうのも、普通の生活を成り立たせている条件である。

市子の半生を知って長谷川義則は、泣きくれるわけだが、なにがそんなに悲しいのだろう。長谷川義則にとって、市子との3年間の同居生活は、ごく普通の生活だったが、市子にとっては、そんな生活でも、死に物狂いでようやく手が届くものだったということを知ったからだろう。
長谷川義則は、ごく当たり前な生活が、実は、かけがえのない貴いものだと知ったわけだ。

最後の、平穏で穏やかな表情の市子。このシーンを見ると、市子だけ特殊なのではないのかもしれないと思えてくる。
普通の人でも、普通の生活を守るためなら、他国を戦争で壊滅させたり、地球環境を破滅させたり、そんなことを、「普通」にやってしまっているのでは、ということだ。
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