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悪は存在しないのysmのレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
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わりと普通に謎解きみたいな方に振り切っていたのが意外だった。オフスクリーンのディアハンター。上流/下流やら鹿やら色々とメタフォリカルに捉えられそうな寓話性はたぶんそこまで重要じゃない。あのオチの必然性をなぜか納得できてしまうところまで観客側の身体性を組み替えてしまう諸感覚の設計。

これまでの濱口作品は「会話」によって善悪の彼岸を導き出すことが多かった。マンションの一室をはじめとする極小の空間に、たいていはちょっとした痴話をきっかけにして仮面を剥ぎ取られた各人の膨大な全人格が投げ出される。何でもないマンションの一室は、即座に各々が各々の裁き手となって燃え尽きていく倫理空間に変貌する。

その倫理空間の息苦しい消尽は、薪と火の関係性に近い。火が燃えるためには薪が必要である。燃え広がる火は、やがてその下に広がる薪の集積を消し炭に変えるだろう。つまり火の肯定は薪の否定である。しかし、そうして自らを否定しながら火を肯定し続ける薪は、その存在自体の消滅によって火そのものの発生を不可能にさせる。薪の可燃箇所が尽きれば、もちろん火は消えるのだから。だから薪による火の肯定は火そのものの否定に終わる。

自らの否定が他者の肯定となる。しかし、初めからその肯定こそが他者そのものの否定を形作っていた。応答責任の応酬はいつでも事後的にしか認識できなかった焼け野原となる。濱口作品における「会話」は、こうした相反する倫理の決定不可能性の向こう側にその彼岸をある種の救済として置く。『PASSION』『ハッピーアワー』など。

その会話という点において、本作でもグランピングの説明会や車内のやりとりは言うまでもなくすごい。これまでは自分のセオリーを映像に当て嵌めたという感じのぎこちなさがあったのが、本作では呼吸するみたいにあの多元的な会話空間ができてる。

が、本作の会話は、決定不可能性の彼岸としての救済といった大層なものでもなく、本来私たちが巻き込まれているはずの会話空間の些細なリアリティ以外のなにものでもない。主客未分の状態から、各々がそこで初めて各々の単独性を獲得していくような場。こうした主客未分のリアリティは濱口作品にはお馴染みなのだけれど、そこに加えて音楽のゴダールっぽいぶつ切りの編集が緊張感を与える。その会話と音楽の淀みない流れが、本作のエコロジカルな崇高性にあのオチの変な納得感を与えているのだろうか。いや、映画を通してそれをなぜか納得してしまうような身体に私たちが作り替えられていると言ったほうがいいか。
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