このレビューはネタバレを含みます
これまでの濱口作品は、他者と向きあうこと、他者に対して開かれてあることが大切、という希望を語っていた気がするけれど
本作は、開けば良いというものではない、という話なのかなと思った
他者に対して開かれるとは、今の自分を和らげる、悪く言えば見失う、とも言える
手負いのシカともわかり合えるかもしれない、という選択は、他者に開かれた結果もたらされたもの
閉じていれば、それまでの自分を守っていれば、悲劇は起こらなかった
他者を理解しようとして、傷つく人、のメタファーにも思える
が、理解した気になりたかっただけで、人の視点からのその傲慢に、罰が与えられた、という話にも思える
本能的に娘を助けようする男も、自然との対話を望む男も、どちらも人の視点で動いていることに変わりはない
人の視点で娘を助けようとする男を暴力でねじ伏せるとき、自然からの暴力が娘を襲う
自然と同期するように動きながら、人の視点で自然という他者を理解できると思った、分裂した態度が悲劇を招いたのか
人は人に過ぎず、自然の代弁者にはなれない
自分は自分に過ぎず、他者の代弁者にはなれない
思い上がり、自己批判の不足
『親密さ』では選択という行為が暴力への対抗だと語られていたが、本作では最後に暴力を選択する
あるいは、選択を放棄して自然の力に身を任せてしまった結果だろうか
対話を望むことは開かれた行為のようだが、自然というもの言わぬ相手にそれを望むのは、暴力と同じ身勝手で閉じた行為なのかもしれない
それはもの言わぬ神に祈ることと似ている
自然と対話を望み、その「返答」が暴力であっても、信仰を続けることはできるのか?
聖書のヨブ記みたいな話なのかもしれない
子を奪われても神を信仰できるのか?
濱口作品で父親が主人公なのは初めてではないだろうか
ドライブ・マイ・カーの主人公は父親になれなかった男だった
本作では父親だが子を守れない男
父親に対して何か思うところがあるのかな、と勘繰ってしまう
僕も父親になって思うが、子どもがいながら他の何かを信仰するのは難しい
神よりも子を守ることが、絶対的になる
子どもが神の代わりになる
子よりも神を選ぶことは、父親としての責任から逃げているのかもしれない
自然の観点から言えば悪は存在しないが、本当にそれでいいのか?
題字の「NOT」は赤かった
存在「しない」という言い切り、閉じた信仰が血をもたらしてしまった?
ラストでは、開かれた/閉じた、選択する/しないという二項対立がぐちゃぐちゃに混ざっていた気もする
強烈な問いだけが投げかけられ、迷いの中に投げ込まれる
言い切り、二項対立的な分断、割り切り
そうしていればラクになる、強いフリができるけど、大きなものへの信仰というのは結局責任逃れでしかないのかもしれない
あるいは大きな力を借りるという、権力欲のようなもの
弱い自分の力だけで、迷い続けられる人間の方が、ほんとうは強いのか
迷いとぐちゃぐちゃのカオスの先に、二項対立を超えた本当の「バランス」があるのだろうか
それはあまりに険しい道だ
子を失っても信仰を貫く、ヨブのような
僕は子よりも優先されるべき信仰があるとは思わない
いや、自分の信仰と子どもどちらも失わないような、本当のバランスを見つけ出したい
そのためには、開かれながら閉じているような、選択しながら選択しないような、矛盾にも見える迷いの道を選ぶべきなのかもしれない
結論らしいものを示さずに問いを投げて終わるのはめずらしいが
この先をどう考えて歩くか、歩かないかはお前次第だ
外部に答えを求めるな
ということなのかなと思った