がぶりえる

悪は存在しないのがぶりえるのレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
3.4
悪意のない悪人たち

淡々としているし、静かだし、ラストの急展開が意味不明すぎるのに、何故かつまらないとは感じない不思議。なるほどこれが濱口ワールドというやつか。所々に挟み込まれる謎の風景カットと変なカメラワークがとても印象的で、監督独自のロジックに基づいて入れられてるカットなんだろうけど、全部は読み取れないし、たぶん全部を分からせようと思って作っていない。そういう曖昧さを孕んだカットに造詣の深さを感じられる人以外はお断り感は前作「ドライブマイカー」より強まった印象であると同時に、確かにこれは海外(特にヨーロッパ)受けは良さそうだなぁとも思う。頭で観る映画。

ちなみに僕は前作の「ドライブマイカー」に引き続きあまりハマらなかった。映画始まって、設定がおおよそ掴めた瞬間に「これ黒沢清の『カリスマ』じゃん!」って思って、そこからずっと「カリスマ」と比べながら見てしまったからあまりのれず。勝手に他作品を引き合いに出した自分が悪いのだけれど、すごく設定が似てるし、黒沢清の方が演出も語り口も一枚上手だなぁと思ってしまった。あと、濱口ワールドと言う割には物語の核心となるところはセリフによる説明が多いのも気になる。これも前作「ドライブマイカー」に引き続きなのだが、この人の作品は結構セリフ量が多いし、一度に全ての台詞を理解して咀嚼しょうと思うとかなり頭を使って観なくてはいけないからしんどい。しかもその間、だいたい車の中かひとつの部屋の中でただ喋ってるだけだから、画的にも地味だしただ言ってる事を聞き取るだけの時間になってる。要するに何が言いたいかというと、演出がもっと欲しい。単調な画と抑揚のないの会話の連続に退屈さを感じた。

タイトルの考察。「悪は存在しない」は「この作品に悪人はいるけど、悪意のある攻撃をけしかける人はいない。」と解釈した。本作は、地元住民、グランピング施設企画発案者、地元民を説得しに行くあの2人、の3視点で語られるが、皆共通して「積極的に他視点に立とうとする努力」が欠けているように思う。互いに「どうせ言っても無駄だろ」って思ってるし、対話する気なんてそもそも無いように見える。その開き直りが人を悪人たらしめているだけで、「誰かを懲らしめてやろう」なんて悪意の持った人は世の中にはいないんだ、というメッセージに感じた。そしてそれらは全て自然の摂理だ、とも言ってる様に感じた。花が有毒なガス(?)を吸って死んだのも、鹿が死んでいたのも、全ては「自然現象」によるもので、誰かの手が加えられた事による意図的な殺害行為ではない。そして、同じ空間で起こった高橋の殺害をそれらと重ねているということは、彼の死、そして、巧の殺害行為は「自然の摂理」「当然の結果」であると言っている様に解釈できると思った。『カリスマ』で言うところの「世界の法則」。巧にとって高橋は「当然消えてもらわなければ困る人」だったろうし、彼にグランピング施設の建設を諦めさせることはできないと思っていたと思う。だから、殺さなきゃしょうがないと思って殺した、当然の事のように。それがタイトルの意味にも繋がる。

心に悪魔を宿した殺人鬼より、「邪魔なヤツ→消せば良い」っていうただの一本道の回路が作動してしまう無機質な人間のほうが何倍も怖い。そして、たぶん行動に移していないだけでそういう考えを持っている人は多い。対話することを放棄して諦めて開き直ってどう力ずくで事を丸めようか考えている人。「何言っても無駄だ」って虚無になっていく人。巧以外の登場人物も巧がやった様な事をしそう人はたくさんいるだろうし、たぶんみんな悪人になり得る可能性がある。そこがこの映画の怖いとこだし、高橋が村の人達に歩み寄ろうとした所でそういう悲劇が起こるのがとてつもなくドギツい皮肉。結局誰もわかり合えないまま終わるこの救いようのなさ...。

本作に象徴される「人間の本当の怖さ」に対する哲学も濱口竜介と師弟関係にある黒沢清と似てるところが多かった気がする。「考えるのをやめて、シンプルに邪魔なヤツ消せばいいじゃん」っていう思想自体は「CURE」をはじめとして多くの黒沢清作品に通底する、ホラー演出の根幹をなす思想だし、こうやって次の世代を担う若手敏腕クリエイターにそのDNAが受け継がれてると思うととても感慨深かった。