雑記猫

ぼくは君たちを憎まないことにしたの雑記猫のレビュー・感想・評価

4.0
 フランスの作家アントワーヌ・レリスの同名作品の映画化。2015年、ジャーナリストのアントワーヌは妻のエレーヌと幼い息子メルヴィルと三人で暮らしていた。しかし、パリ同時多発テロによって、妻が帰らぬ人となってしまう。悲しみの中、アントワーヌはテロリストに向けて「ぼくは君たちを憎まないことにした」と題したメッセージをフェイスブックに投稿するが、これが大きな反響を呼び、多くのメディアからの取材を受けることとなる。一躍英雄として時の人となるアントワーヌだが、それとは裏腹に実生活は大きく乱れていく。


 2015年のパリ同時多発テロによって妻エレーヌを突然に失った夫アントワーヌは、遺された幼い息子メルヴィルと二人遺される。一人息子を育てることとなるアントワーヌは使命感に奮い立ち、気丈に息子と明るく生活を営もうと試みる。が、その一方で、息子が寝静まった夜は3人で暮らした家の中に遺された妻の面影を追い求め、遺体との対面やテロについて伝えるニュースなど妻の死を実感させる場面に出くわすたびに、アントワーヌの心は千々に乱れるのである。本作ではこの激しい心の乱高下が非常に丁寧に描かれている。そもそも、エレーヌが生きていた間は、共働きながら家事の主導権はエレーヌにあり、かつ、経済的にも一家の大黒柱はエレーヌ、かつ、アントワーヌはどこか恋人気分が抜けず、エレーヌに比べて父親にはなりきれていないという状態であった。一言で言えば、アントワーヌはそれほど精神的にタフな人物ではないのである。それゆえ、アントワーヌとメルヴィルの2人の暮らしは困難の連続となる。そのうえ、アントワーヌがテロ数日後にフェイスブックに投稿した文章が図らずも世界的に大反響を呼び、アントワーヌは一躍時の人となってしまう。彼の文章はテロで傷ついた数多くの人を救ったが、それがゆえに、そんなフランス中の多くの人達は、アントワーヌにテロに屈しない聡明で逞しい父親像を求めてしまうこととなる。幾千もの人を勇気づけた言葉が、その言葉を吐いた本人には呪いとなって降り掛かってくるのである。安易に他者に理想やロールモデルを求める大衆心理への危機感がそこにはある。


 本作はエレーヌと生前に家族3人で行こうと約束していたリゾート地で幕を下ろすのだが、作劇上、ここで終わる必要性はそこまで大きくない。もっと手前で終わっても構わないし、もっと先まで描いても良い。本作は妻エレーヌの死というあまりにも衝撃的な幕開けとフェイスブックへの投稿の爆発的なバズリの2点以外は特筆すべき劇的な展開はなく、ただひたすらにアントワーヌの心の浮き沈みが繰り返し繰り返し描かれていく。現実の人生において、傷ついた心を魔法のように癒やしてくれる劇的な出来事は起こらないし、幼子とのワンオペ生活が見違えるように楽になる奇跡も起きない。テロリストの凶弾で妻が死んだという事実への「なぜ?」という問いに答えが呈示される日は来ないし、心の傷もそう簡単に癒えることはなく、幾度となく地の底よりも深い絶望に心が落ち込んでいくこととなる。それでも、わずかでも息子の成長が垣間見えれば心は踊るし、屈託ない息子の笑顔を見れば嬉しい。安寧と再生は何年にも何十年にも及ぶそんなことの果てしない繰り返しの先にあるのだ。本作はそのことをドライに、それでいて暖かく描いている。
雑記猫

雑記猫