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52ヘルツのクジラたちのtekeroinのネタバレレビュー・内容・結末

52ヘルツのクジラたち(2024年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

*取り返しのつかない盛大なネタバレを含みます。ご注意下さい。






















 本作には社会的な議論の対象となるトピックが多く見られます。貴瑚や愛(いとし)が親から受ける児童虐待、貴瑚が陥った苦境としてのヤングケアラー、または安吾が抱えるトランスジェンダーに貴瑚が主税(ちから)から受けるDVなどがそれに当たりますが、その地獄の如き内実を①貴瑚と安吾の運命的な出会いから②取り返しの付かない別れに至るまでの話として描き切り、③その後の貴瑚の再生をかつての自分と同じ境遇にある愛との関わり合いの中で見せていく。
 その狭間で起きる悲劇として貴瑚と安吾が選択する自死の場面は、その成否を問わずに、ドラマチックな展開を劇中に生み出し、観客の涙を誘うのに十分なものとなっています。だからこそ本作が抱えるリスクは相当に深刻で、様々な立場の人を商品として取り扱う側面を免れてはいません。そのことを成島出監督を始めとする製作陣は勿論、主演を務められた杉咲花さん、志尊淳さんたち俳優陣がしっかりと認識し、覚悟を決めて演じられていた。
 杉咲さんといったキャストが監督との間で喧々諤々の議論を行い、撮影が止まる危機を何度も迎えるぐらいの一体感をもって臨んだ撮影のその内幕については、内容十分のパフレットを読んで色んな人に知って欲しいと思いますが、観客として気になるのはなんといってもその結果です。
 スクリーンに現れる映像表現が模造刀の様な嘘くさい作りになっていたのなら全ては無に帰して当然。ここをシビアに見ないと今後、同じテーマを取り上げる他作品に悪影響を与えかねない。本作を観るにあたって私が危惧したのはこの点でした。スイッチインタビューという番組で角銅真実さんと対談された時、杉咲さんがこの点を意識した発言をされていたので一応の安心感を持って劇場に足を向けたのですが、はい。全ては杞憂に終わりました。



 本作が抱える上記リスクに対して取られた手法を私なりに言葉にすれば、それは突き詰められた「当事者感覚」になると思います。数多くある映画やドラマの理想として、例えば観客が登場人物にのめり込む形で映し出される物語を追体験するというものがあると考えますが、本作ではかかる理想が見事に映像化されている。しかもそれが激しい言葉の応酬とかでなく、決して表に出てこない感情の機微としてスクリーンに映し出されていました。
 具体的にいえば肌の状態まで窺えるアップの画で決して口にはされない貴瑚と安吾、それぞれの思いを言葉以前の原衝動のようなものの動きとして杉咲花さんが、あるいは安吾として絶望する志尊淳さんが画面の向こうで表現されている。例えば安吾は貴瑚と付き合い始めた主税と初めて出会う場面で終始不安定な様子を見せるのですが、その理由は男性として生きる生活の全てをひっくり返される恐れを彼が抱えてしまっているから、と観ていて理性的に理解できます。しかしながら当該場面で凄かったのは安吾を演じる志尊淳さんがその身で纏った雰囲気そのもの、頼れる存在感の背景にあった荒涼とした彼の世界そのものだったんです。
 目を背けることが許されないぐらいに真に迫ったその演技の背景には、例えばトランスジェンダー監修として脚本制作の早い段階から関われた若林祐真さんとの間で綿密に繰り返された台詞の読み込みなどの共同行為があったと後から知って心から納得したのですが、この人物造形に注ぎ込んだ時間と熱量が貴瑚や安吾を他に類を見ない「本物」の次元に押し上げています。何がきっかけでそうなったのか、という狭い時間軸では決して捉えられない彼らの人生が目の前に映し出されていたんです。これには本当に心打たれました。



 物語の面でいえば各々の生きる世界で妥当する「当たり前」という感覚に溺れてしまい、無自覚に誰かを傷付けて取り返しのつかない結果を招く。どこかの被害者がどこかの加害者に転じるこの容易さが本作の核となるテーマだと思いますが、安吾の死をもってそれを観客に知らしめる非情さは、他方で貴瑚が生きる「世界」の移り変わりも意味しています。これが自殺という悲劇による単純なドラマ性を本作から排除するんです。
 劇中、貴瑚は自分の名前を3回変えます。1回目は安吾に救われた時。「貴瑚」から安吾が名付けてくれた「きなこ」へと名前を変える。2回目は主税と付き合い始めた時。「きなこ」から「貴瑚」へと戻す。それから3回目。安吾の自殺を受けて、また主税に彼の遺書を目の前で焼かれたことが引き鉄となって2回目の自殺未遂を図った後、貴瑚は自分の名前をもう一度「きなこ」に変える。ここに現れる貴瑚の心情はきっとこうだったと思います。

1度目→母から虐待を受けている異常な世界から、皆んなが生きる普通の世界へと歩み出す私。
2回目→皆んなが生きる世界で当たり前に生きていい私、過去から解き放たれた言い張れる自分。
3回目→「当たり前」を「当たり前」と信じられない。手を伸ばすのも怖い私。

 ここには「当たり前」という感覚が平らに均す貴瑚の「世界」観の崩壊が表現されていると私は考えます。この崩壊によって剥き出しになる当事者感覚が、本作のタイトルにもある52ヘルツのクジラの孤独に通じていく。理解したくても理解できない。手を伸ばしても決して届かないという絶望を抱えて、貴瑚は祖母が暮らしていた大分に移り住んで来た。そしてその地にあって、かつての自分と同じ虐待を受けている愛(いとし)に出会った。過去と現在を行ったり来たりする本作の時間軸に込められた意味がここに収斂します。
 決定的な所では絶対に理解し合えない「私」たちとしてできることは何なのか。
 貴瑚と安吾の足を引っ張る様にして周囲の人たちが口にする「愛」と、最後の最後まで安吾が手放さなかった貴瑚への「愛」との間にある感触の違いは何だったのか。 
 それから貴瑚と愛が迎えた最後。あの場面で彼の心を動かしたものは何だったのか。ただ声をかける、それだけで変わる彼固有の絶望ではなかったはずなんです。これらの事が今でも分からない。感じ取れない。貴瑚と愛、それぞれの当事者感覚の極みなんだと思います。



 ぽんっと軽く押された感覚を覚えて遠ざかる本作のラストは、それでも綺麗で美しい。その長回しのワンショットに秘められた逸話の愛おしさは前述したパンフレットで味わえます。
 いま一度主演の二人の演技に言及すれば、苛烈な感情表現がその演技の代名詞だと認識している杉咲さんに関しては本作で見せる新境地が特筆に値します。現在の時間軸にあって表情筋を殆ど動かさない貴瑚の心情をフィジカルに強く、傷跡として生々しく見せる在り方は俳優、杉咲花の未来をグッと押し広げたと私は評価します。それから志尊淳さん。繊細な表現をされる方だと以前から思ってはいましたが本作で演じる安吾については、その魂めいたものまで感じさせる域に達していた。もう大絶賛。本当に、本当に素晴らしい。
 他のキャスト陣も同様です。プライベートでも杉咲さんの親友である小野花梨さんが演じる美晴はとにかく明るいキャラクターなのですが、見ようによっては最も孤独な人物でもあります。だってあんなに仲が良かった貴瑚と安吾の人生の岐路において、そのどちらにも関わることができなかったのですから。ここにも孤独とイコールで結ばれるべき当事者性が垣間見えます。だからこそ、あの言葉が生きるんです。
「私は一生、あんたの友達だからね!」
 ここに認められる力強さはもしかすると、愛(いとし)の目から貴瑚の姿なのかもしれない。こういう想像力を働かせてこれからも生きてきたい。そう誓える大傑作です。迷われている方は是非。今も心のあちこちを打ち抜かれた状態にある私の威信をかけてお勧めします。
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