まぬままおま

車軸のまぬままおまのネタバレレビュー・内容・結末

車軸(2023年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

本作はR18+指定作品である。映倫のホームページで本作を検索すると、「極めて刺激の強い性愛描写がみられ」(☆1)るためとしている。しかしきっと映倫の審査員は厳格なクリスチャンかセックスが何たるか知らない人たちなんだと思う。キャストのファンはがっかりだ。「極めて刺激の強い性愛描写」をキャストがどのように演じるのか期待していたわけだから。でもあるのは単なる3Pだ。

そんな冗談はさておき、本作がこのようなレーティングになっているのは、性愛描写ではないと訝っている。本当の理由は、天皇制や「東京リベンジャーズ」、自由民主党や神道をバタイユにならって「パロディー」化しているからだと思う。このようなことを真っ当にホームページで公開したらマスコミが食いついて話題になってしまうし、劇場数が少なかったり、舞台挨拶が皆無なのも当然である。

公然とこの作品がなかったことにされる状況に笑わざるを得ない。だが現在の日本でバタイユ好きが増えたら、お偉いさんの首は容易に吹っ飛ぶし、その懸念は中指を立てて称賛したい。ただ本作を許容できない社会状況は極めて危ないと思う。

本作は小佐野彈の同名小説の翻案である。翻案に当たって着目すべき点は、劇中劇をワーグナーのオペラ「タンホイザー」からバタイユの「マダム・エドワルダ」の朗読劇へと変更した点である。このことから本作にはバタイユの思想がフッテージとしてあるのが分かる。

印象的なのは無垢な大学生の真奈美がはじめてホストに行くシーンである。彼女らがいくホストクラブの入り口には「東京リベンジャーズ」をパロディー化したうたい文句がホストの写真とともにある。こんなのカメラに収めたら同名映画を公開している東宝が許すわけないだろう。けれどカメラに収めた以上、上述のような商業的・政治的・宗教的なものごとをコピーではなくパロディーで笑い飛ばし、脱自化とその果てにあるエロスを追求した作品であるとは言えよう。

そう考えると色々と合点がつく。物語冒頭の真奈美がマッチングアプリで出会った男とワンナイト前の食事シーンがある。そこで彼女らが山手線とその「穴」にある皇居の話をするのだが、極めて不謹慎である。なぜならセックスの「前戯」として天皇制ひいては国の骨幹に関わる話をするのだから。
そして真奈美が自民党の政治家の娘であることも、真奈美がマダム・エドワルダを憑依させて神社で脱ぎだし「私が神だ」というのも政治・宗教的に大問題だ。
このように本作は何げない会話シーンや人物造形、舞台に、パロディーを散りばめて観客を笑いへ誘う。そしてもちろん真奈美の物語にもなっている。

政治家の娘で大学生の真奈美は、学生であるにも関わらず「しぶや百軒店」のアーチを眺められる物件に住んでいるし、高級なカフェにいける。何も不自由がない。しかしその不自由さは静かであるがゆえに、落ち着いていて停滞していて「死んでいる」。本作に通底している寒色で静寂な筆致は彼女の何もかも自由だけど、親や社会からの「禁止」がないため逆説的に抑圧されている様を描いている。

そんな真奈美が友人に誘われていったホストクラブ。友人のまた友人でゲイの潤も同伴し、彼女は元ナンバーワンホストの聖也に出会う。
彼女がホストに嵌まってしまうのは分からなくはない。ホストとは市場経済から逸脱した社会と経済のあり方である。まさにバタイユがいう「蕩尽」の社会/経済。シャンパンが何十万するわけがない。聖也がそうであるようにホストは外見はよくても中身は空っぽだ。けれど他のキャストに「推し」を奪われないように、そしてアフターで禁じられているはずのマクラ≒セックスをするために、空虚な意味空間で無意味に酒を飲み、狂い、金銭を使い果たす。常識では考えられない狂っている状況。けれどその狂いを真奈美は抑圧から解放されるために求めているのである。

そこから彼女は「下劣へと堕落する」。

アフターで彼女は潤と聖也と3Pをする。この3Pではセックスに意味づけされることがことごとく逸脱されている。3人であることで生殖やモノガミー性は否定される。潤がいることで異性愛も否定されている。そもそもこのセックスには愛がない。倒錯的状況だ。しかし真奈美や潤が抑圧から解放するためには倒錯が必要なのだ。
ただ真奈美も潤も気づいてしまっている。このセックスが性的欲求と共に抑圧からの解放をもたらしても一時的なことに。抑圧からの解放は欲望だ。欲望は無限に湧き起こる。でもこの欲望の解放の仕方が分からない。蕩尽し続けるしかない。彼女はホストに狂いだしていく。
真奈美のホスト代の原資は、家族カードなのだが何百万と使ったために父に呼び出される。家父長の登場だ。彼女は実家のある青森県の盛岡からさらなる北へ帰る。この時、父は真奈美を家父長らしく叱ればよい。彼女にホスト通いを「禁止」して、学問に励むことを命じればよい。それは彼女に父に怒られて失禁ー生理的欲求からの解消と禁止を失わせることの表象だーしてしまったトラウマを呼び起こすかもしれない。だがそれは父を乗り越えるために必要な通過儀礼だ。しかし現代という状況はかなしく、父はもはや家父長的権威を持ち合わせていないし、怒るどころか心配をする。それは真奈美にとって絶望でしかない。もはや「禁止」も命令も存在せず、抑圧だけが空気のように残り、発狂することも失禁することも許されない。

彼女は家族を捨てる。地元を捨てる。家族カードを捨てる。東京に戻ることが抑圧から解放されるための手段だ。この時、彼女はようやく独りの個人として「本物」になったのではないだろうか。

しかしこの「本物」が彼女の救済になっているのかは定かではない。彼女はマダム・エドワルダと同様に娼婦になる。裸のまま生きて神になる。この時、娼婦=真奈美=神の等号が成立している。だがセックスは決して彼女の欲望の解消にはなり得ない。あるのは死に向かっていく狂いのみだ。真奈美と潤と聖也がホストで再会する時、潤は痩せ細っている。彼が幸福に生きているようには思えない。涙が止めどなく出る。でも笑わざるを得ない。そして真奈美もまた涙を流そうとこの状況を笑わざるを得ない。みんな狂っている。でも狂いながら笑うその果てで彼らは脱自化して下劣な「神」になっていくのだ。

彼らの生にはタナトスが蠢いている。むしろタナトスへと向かっている。それは人間の普遍的な有り様なのだろうか。そこに打破する手法はないのか。打破は、タナトスをさらに加速させることか、それとも人間がそもそも生まれなければよいのだろうか。私は希望を紡ぎたい。けれど私もまた都会でさまよい、退屈な未来を浮遊している。

☆1 映倫ホームページ「『車軸』審査結果ページ」https://www.eirin.jp/list/index.php?title=%E8%BB%8A%E8%BB%B8&eirin_no=&s_year=2009&s_month=1&e_year=2023&e_month=12&x=50&y=35

追記
このように物語として一定の評価をしつつも描写が的確とは思えない。例えばホスト空間の描写は、客もホストの数も少ないから狂気が充満していない。閑散とした開店直後の店内の様子にしかみえない。
また潤が真奈美に3Pを提案する描写もカフェで真正面に座って話しながらとかありえないでしょう。そんな理性的にはならないし、逆に狂気を感じる。
アヴァンクレジットから街にいる聖也そして車内の真奈美にシーンでつなぐのは面白い演出・カメラワークと思いつつ、映像イメージは微妙に早送りで、車のフロントガラスにクレジットを横スクロールさせるのは不要だと思った。劇伴とのテンポの悪さも感じるし何だかなー。
あとセックスシーンも横からの2カットぐらいしか撮られていないし、どうせ撮るなら正面とってR18+に値する性愛描写をお願いしたい。
あとフォントを統一してください。

本作は真奈美の家族・社会からの抑圧からの解放として、3Pやホスト狂い、娼婦化として筋道は立てられるが、彼女が親らを捨てることと3人の関係が交錯していないのが残念なところ。真奈美は青森からタクシーで東京に帰るのだが、そこで3人のドラマが絡めば素晴らしかったし、そうするべきでしょう。なぜなら「青森から東京へ帰る時間」は彼女にとって「本物」になるために必要な長い時間だし、そこでの他者とのコミュニケーションも大事だからである。だからカット割って省略することもドライバーが青森の見知らぬおっちゃんではダメでしょう。
そして劇中劇の導入や車での「旅」が物語として存在する以上、『ドライブ・マイ・カー』と対比せざるを得ないし、その域には到達していない。朗読劇のシーンも単に演劇をカメラに収めただけで、真奈美とのカットバックもないから、真奈美の実存と絡むシーンとは全く思えない。ただ濱口竜介監督がチェーホフをフッテージにするように、松本准平監督がバタイユをフッテージにする映画監督ならば十分、世界と張り合える監督のように思える。そんな芽を摘むお偉いさんはつくづく碌でもないと思う。