ボブおじさん

アイアンクローのボブおじさんのレビュー・感想・評価

アイアンクロー(2023年製作の映画)
4.3
〝身代わりアスリート〟という言葉がある。親やコーチなどが、スポーツで自分自身の果たせなかった夢を子に託すことを意味する言葉だ。

子どもの可能性に大きな期待を持つことは良いのだが、その期待が大きすぎると子どもの心身の許容範囲を超えてしまい、それがプレッシャーとなってのしかかってしまう。子どもは、親の期待に応えようとし、親が喜んでくれるように一生懸命に努力する。しかし、その結果子どもたちが自由に競技を楽しむことができなくなり、最悪の場合は競技も親もトラウマの対象となってしまう。

何もプロやオリンピアなどのトップアスリートに限った話ではなく、週末のグラウンドや体育館に行けば今でもその予備軍の親子の姿を見つけることは容易にできる。

アメリカプロレス史に〝呪われた一家〟として名を残す〝鉄の爪〟エリック親子は、さながらこの〝身代わりアスリート〟の見本市だった😢

親のエゴに他ならぬこの関係が厄介なのは、その根源にあるのが〝本人なりの愛〟であるというところだ。子供が好きでやっているならまだ救いがあるが、やらされているとしたら地獄でしかない。

父フリッツ・フォン・エリックは、人気レスラーの1人ではあったが、〝ナチの残党〟というヒール(悪役)のギミック(キャラ設定)でデビューした彼はプロレス界の頂点に立つ存在にはなれなかった。フリッツは息子たちを競わせプロレス界の頂点を目指していた。その関係性は親子というより軍隊の上官と部下の関係に近かった。ただし軍隊と違いその関係性はどちらかが死ぬまで続くのだ。

プロレスという特殊な世界を舞台にしているが、競技を変えればプチ エリックは、あなたの周りにもきっといる。スポーツの枠を超え音楽や勉強にまで範囲を広げれば、決して他人ごとではないだろう。

プロレス界の伝説にして〝呪われた一家〟と呼ばれたフォン・エリック・ファミリーの実話を映画化。主人公の次男ケビンを「ハイスクール・ミュージカル」や「セブンティーン・アゲイン」で一世を風靡した青春スターのザック・エフロンが好演。エフロンをはじめ出演者たちが見事にビルドアップしたプロレスラーの身体で本作の撮影に臨んでいる。

逃れられない家族という呪縛。兄弟の絆と序列そして一瞬の栄光。その後突如として訪れる悲劇。極端な家父長制によるマッチョイズムの元、フロリダに築かれたフォン・エリック帝国の虚像。矢継ぎ早に映し出される描写が圧倒的なリアリズムで迫って来る。

一家の呪いはいつから始まったのか?果たしてケビンは、この負のスパイラルから抜け出すことができるのか?父親譲りの〝鉄の爪〟で彼らは一体何を掴んだのか?

プロレスというジャンルだけで避けているとしたらもったいない。断言するがこれは決してプロレス映画ではない。運命に翻弄された兄弟の物語であり、愛し方を知らない哀れな父親の物語だ。



〈余談ですが〉
生粋のプロレスファンである。
特に1970年代から80年代にかけては毎週プロレスを見て育った😅
これから述べることは、そんなプロレスファンの戯言だと思って聞き流してほしい。

ご存知の通りプロレスラーには必殺技というものがある。この技が決まったらもう勝負ありという決め技だ。

ジャイアント馬場なら16文キック、アントニオ猪木なら卍固め、ザ・デストロイヤーなら足4の字固め、ルーテーズならバックドロップ、ザ・ファンクスならスピニング・トーフォールド、アブドラザ・ブッチャーならフライング・エルボードロップ、スタン・ハンセンならウエスタンラリアット。

それらの必殺技は、その威力もさることながら見た目の華やかさがあった。大きなレスラーが大きなモーションでド派手に決めて観客は溜飲を下げる。技には視覚効果も必須だった。

それに対して〝アイアンクロー〟には華がない、代わりに思いつくのは残虐性や恐怖心だ。つまりこの技は悪役レスラーの技であり、チャンピオンやスターレスラーが選ぶ技ではなかったのだ。

父親のフリッツ・フォン・エリックは、〝ナチの残党〟というキャラ設定とこの残虐性に溢れた必殺技が見事にマッチして恐怖の悪役レスラーとして成功した。

しかし、息子たちを善玉レスラーとしてスターにしたいのなら、アイアンクローは封印すべきだった。この技には華が無い。息子たちには、それぞれ別の華のある必殺技を与えるべきだったのだ。

映画を見終わった後、子供の頃、恐怖に慄きながら見ていたテレビの実況中継を思い出す。〝ガッチリ決まったエリック必殺のアイアンクロー。一度掴んだら相手がギブアップするまで絶対に離しません!〟

その台詞と映画のタイトルが頭の中で何度もリフレインした。