陪審員2番という象徴的なタイトルからはイーストウッド的な無名性なるものの炙り出しかと思いきややっぱり一筋縄ではいかない人だなと思った。
現場写真からどんどん動揺していき、強いては隠しきれないまでに動作、言動まで影響を及ぼすニコラスホルト。
それでありながら出産前に守らないといけないもの、過去の過ちも抱えてまさに三重苦の様。
また同じ陪審員に選ばれた者たちも短いながら個性があって良かった。
元刑事で違反を冒したために途中で離脱せざるを得ないJKシモンズは事故後の修理されたSUVの登録車番号という手探りな証拠でありつつ、紛れもない証拠を検察トニコレットに提言と共に託す。
それは冤罪という形ながら偽りならざる罪の裁きに手助けされた被害者女性の家族からの手紙として託されるというあまりにイーストウッド的と言わざる得ない演出の徹底ぶりは感心するという言葉でも足りない。
しかもショットはどれも慎ましい。
切り返しのショットをこのタイミングでしかないという点で使われるのは多くの人が指摘されるだろう。
ニコラスホルトとトニコレットがほぼ偶然といっていいほど落とされたスマホを撮った事で顔を合わせた偶然性と、まさか鹿を引いた思っていた単なる事故が実は重大な事件の加害者になっていたというとてつもない運命論的な話し。
それを手短に描いて見せてしまうのも近年のイーストウッドを語るうえでもう言い尽くされた感もある。
蛇足として、以下は読み飛ばしオッケー
作品とは関係なく2点否定しておきたい。
1点目はイーストウッドの本作が映画館に掛からない事で一部"X"等で署名活動をしている行為をみたけどもそれがイーストウッド自身や作品の質にまたは映画界に置いて1ミリも貢献していないという事を私自身は考えています。
むしろ悪影響となる場合が多い。
そもそも映画館で掛かる事こそが映画に値するというのは関係ない。
馬鹿や素人がどんなに試写会や映画館に一足先に見たとて、優れた者がそれを10年後に発見し、的確な言葉において作品素晴らしさを表現すれば良いのだ。
どのような形であれ見てどう映像言語を感じ取るかに変わりはない。
また今後は表現によってはこういったプラットフォーム限定で選民主義ように見たい奴が見れば良いという方が作家としても生きやすい場合も出てくるだろう。
映画館で上映されなければならないというのはつまらない強迫観念である。
またイーストウッドへの対価とかWBの冷遇というのはもはや作品から遠く離れた議論であって作品自体には1ミリも関係はない。
なおかつ最近の"X"の民度は褒められたものではない。
それは悪い事ばかりでなくイーストウッドを初めて知る者が本作になる場合だって当然ある。
その場合にこの作品が2024年に何かしらで公開されたもののうちの1作品とは思えないだろう。
その時点でその新しいイーストウッドの発見者を潰している事になっている。
そういう無自覚な連中が署名に燃え、「地獄で何が悪い」には無言で突き通すという一貫性がに欠ける。(一貫させるバカも存在するけど)
園子温については単に映画的な才能がなかったのは事実なのでそれを作品と一緒に批判すれば良い。
性加害は全く別の問題して語るべき。
また真に発見され得ない新たな作家であるなら是非とも署名や広告宣伝で合法な形で動画なり流される事は良いこと思う。
駄目な映画は自然に淘汰され、埋もれてしまった場合は人類の一生の恥として後世に残り、それもいずれ発見されるだろう。
でもそれが映画館であるとは限らない。
一方で我々にはイーストウッドへの借りもある。
それは「ヒアアフター」の公開予定だった2011年にあのような地震と津波が起きてしまった際に、イーストウッドから日本上映の公開延期を申し出てかつ公開時には、映画作品上に一切関係なく、本編が始まる前に予め津波の描写のシーンがありますという字幕が追加された。
少なくともこの借りは綺麗に返すチャンスだったとは言わざる得ない。
もう1点はイーストウッドの遺作かという点だがこれは最も疑わしい。
そもそもこの男はあれだけ死んだと自ら演じてきて、何事もなかったかのように次の作品を演じ撮っているからだ。
さすがに「運び屋」辺りのラストであのイーストウッドが自ら育てた美しい花々(なんの花かは忘れた)とイーストウッド自身を捉えたナメのショットで終えたときは私もさすがに過ったけどもそこから何事もなかったかのように数本を重ねている。
彼はホンキートンクマン、流れに身を任せて人知れずにまた新作が上がっているといういつもの裏切りを期待する。