まぬままおま

Hereのまぬままおまのレビュー・感想・評価

Here(2023年製作の映画)
4.8
私が思ったのはリゾームだった。

それはエンドクレジットに象徴的である。スクリーンという一面に名前が羅列され、役割がポコポコと浮上する。ここでは主演や監督が特権的な地位を占めることはない。中心がないのだ。

そんなことを思い、リゾーム概念を創造したかの哲学者の本を読み直したら発見があった。

「われわれは樹木に倦み疲れている。われわれはもはや樹木や根を、また側根をも信ずるべきではない。そうしたものを我慢しすぎてきたのだ。樹木状の文化のすべてが、生物学から言語学に至るまで、そうしたものにもとづいている。逆に、地下茎と空中根、雑草とリゾームの他には、何一つとして美しいもの、愛にあふれたもの、政治的なものなどない」(p.40、G・ドゥルーズ+F・ガタリ『千のプラトー 上 資本主義と分裂症』)

「樹木状の文化」に基づく映画とは、一般的に想起される映画だろう。主人公がいて中心的なテーマがあり、そのために出来事が起き、それをはじめから終わりまで体系だって語る映画。ひとつの樹木。それを「信ずるべきではない」とは言い過ぎな気がするし、森を形成するためには樹木も必要な気もするが、ともかく本作は樹木の映画ではない。蘚苔の映画だ。

本作に主人公はいる。バカンスを迎えようとしているシュテファンと蘚苔学者のシュシュが。しかし彼らの物語に「樹木状の」テーマはない。彼はバカンスで家を空けるから、冷蔵庫の中身を空にしようとスープをつくって仲間にお裾分けしたり、車の修理をしたり、刑務所にいる幼なじみの話を親しい人とするだけだ。彼女もまた道ばたに生える苔を採取し、顕微鏡で観察したり、おばの中華料理店に顔を出しているだけだ。何か劇的なドラマが起こるわけではない。解決がされるわけでもない。ノーベル賞級の発見があるわけでもない。このような語りはとても危うい。中身がなくて、だから何なの?と言われればそれまでだ。映画であることが破綻してしまう。

しかし二人は出会ってしまうのだ。雨宿りをする中華料理店の中で。このシュテファンとシュシュが出会う=連結することはリゾームそのものだ。そしてこれこそ最も美しく、愛にあふれ、政治的なものなのだ。

偶然出会った彼らは、また偶然に森の中で再会する。そこでシュシュは森に生える苔を採取して目録をつくっており、シュテファンはその作業に出会し、一緒にやろうとする。
この些末な出来事は何なのだろうか。なぜ彼らは苔を覗こうとしているのか。

辺り一面に拡がる苔は地図のように思える。何かポイントはありつつ、樹木のように体系づけられはせず、リゾーム状に拡がっているからだ。しかしその一点を覗いてみると、苔は一株として体系づけられている。美しい世界がつくられている。そしてその世界がつくられるまでの物語が伴っている。このように考えれば地図の苔には覗く度に無限にも思える物語が展開されている。それはとてもとても小さい。けれど美しいものだ。

だから目録をつくるということは、地図の苔の一点を覗き、苔の物語を整序する運動とも言えるはずだ。そしてその運動がシュシュとシュテファンにもリフレインされている。

彼らはブリュッセルに移民として存在している。体系づけられた国民として根を張っているわけではない。しかし彼らにも物語はある。それはブリュッセルをひっくり返す物語ではないけれど、スープを分かち、おばの店を手伝うといった些末だけど尊い美しいものだ。もちろん彼らの目録をつくる物語も。それが完遂されることはないけれど、シュシュが靴紐を結び直して、シュテファンが起き上がらせたあとに生起される物語ほど尊いものはないだろう。それも体系づけられた恋愛ではない。けれどそれをリゾーム状の恋愛といってよいとは思う。
そしてこのように考えれば、本作は決してエモーションを駆り立てるだけの映画ではなく、極めて美しく、愛にあふれ、政治的であると言えるだろう。

再び引用する。

「植物たちについていくことー手はじめに、継起する特異性の周囲に生ずる収束円の数々にしたがって、最初の線の限界を定めるがよい。次にこの線の内部に、新たな収束円が、限界外に位置し、かつ別の方向を向いた点をともなって生じるかどうかを見るのだ。書くこと、リゾームを作り出すこと、脱領土化によって領土を殖やすこと、逃走線をそれが一個の抽象機械となって存立平面を蔽うまで広げること」(p.32、同上)

苔についていくこと。私たちの生きる領土を殖やすこと、拡げること。そのためには、スクリーンに現前する地図の苔が必要なのだ。

参考文献
G・ドゥルーズ+F・ガタリ(1980):“MILLE PLATEAUX”Les Editions de Minuit(宇野邦一+小沢秋広+田中敏彦+豊崎光一+宮林寛+守中高明 訳(2010))『千のプラトー 上 資本主義と分裂症』河出書房新社 

補記
リゾーム概念を完全に理解したなどとは到底言えはしないが、「序」について分かる部分は多くなった気がする。なお出会う=連結することをリゾームとしたのは、特性の要約として「任意の一点を他の任意の一点に連結する」(p.51)の記述によっている。