“徹底して顔を隠される花嫁”というインドの保守的な風習に端を発する“花嫁の入れ違い”という物語、そのアイデア自体がユニークなアンチテーゼに溢れてて印象深い。不安と戸惑いが滲み出ているプールの表情、ベールに覆われて“自己”を喪失するかのような花嫁衣装など、冒頭から本作が一石を投じる要素は明確である。監督のキラン・ラオ、『きっと、うまくいく』のアーミル・カーンの婦人なのね。
本作では2000年代初頭のインド社会の保守的な家庭像/ジェンダー観に焦点が当てられ、見合い結婚による“共同体の維持”というシステム化された伝統性が顕著に描かれている。そのシステムの犠牲となり自己を失っていく“女性”が、まさに伝統に端を発する事故をきっかけに“自立”や“自己表現”へと進んでいく。プールは保守的な社会のアウトサイドに迷い込んだことで、ジャヤは抑圧への反発ゆえに、“魂の解放”へと至っていくのだ。プールが世話になるマンジュおばさんや悪徳警官でありながらも最後に粋な姿を見せるマノハル警部補など、脇を固める面々も味わい深い。
本作の印象深い要素はウーマン・リブの描写のみならず、それに対する“既存のコミュニティ”側のリアクションが描かれていることである。夫であるディーパクは騒動を経て過ちを省みて、伝統的な家庭はジャヤに触発される形で“自己の解放”を受け入れていく。権威の側であるマノハル警部もまた最後は“正しさ”の為に動く。価値観の変革に対して社会が成すべきこと、向き合い方、その指針を示しているのが良い。本作の花嫁は最終的に既存のコミュニティへと帰参するけど、そのコミュニティ自体の革新への道筋を描くことで明るい余韻を生み出している。
社会派としてのテーマ性を持ち合わせた作品でありつつ、あくまで娯楽作としての枠組みに収めている印象。ユーモラスな要素もちらほら見受けられる。かなりしっかり分かりやすく纏まっていたけれど、それ故に作劇や演出などでエッジの乏しさも否めない部分はあった。とはいえ保守的な家庭像に疑問を投げ掛けつつ、その先の新たな道筋を提示した本作には確かな意義があると思う。前向きな未来が見えるラストの清々しさ、やはり愛おしい。