ヨーク

リンダはチキンがたべたい!のヨークのレビュー・感想・評価

4.5
実に実に素晴らしいアニメ映画でした。先日感想文を書いた『父を探して』も個人的に超高評価だったがあれは10年近く前の映画をやっと観たというものだったので、最新のアニメ映画としては本作はちょっと頭一つ抜けて面白かったと言ってもいいのではないだろうかと思う。大体がタイトルの時点で素晴らしいではないか。『リンダはチキンがたべたい!』だよ。このタイトルだけでどういう映画なのか分かるではないか。そうです、チキンを食べたがるリンダのお話です。言ってしまえばストーリーはそれだけなんだけど、それをどのように描き、見せるかというのが重要なのであって、本作でのその部分は本当に図抜けて素晴らしかったと思うな。アヌシーで最高賞であるクリスタルを受賞したのも納得というものですよ。
上でも書いたが本作のお話は7~10歳くらいと思われる少女のリンダがチキンの煮物(パプリカチキンというものらしい)を母親にせがんでそれを作ってもらう約束を取り付けることから始まる。しかしその日はタイミング悪く労働者のストの日であったため、近所の精肉店やスーパーマーケットは軒並み閉店。どこに行ってもチキンを買うことができない。リンダと母親は何としてもチキンを手に入れるために町の中を駆けずり回って周囲に大騒動を巻き起こしていく…というもの。一つだけ付けたしておくとリンダは物心つく前に父親と死別してるのだがそのパプリカチキンは父の得意料理で、自分と父とを結びつける僅かなよすがとして父のことを忘れないためにその料理をねだるということがある。
でもまぁ何というかですね、上記したあらすじを見ていただければ分かるように本作は基本コメディで、そこが良かったですね。予告編でも死別した父親との思い出が云々とか言ってたし、観る前は割りと感動作路線なのかなーとも思っていたんですが、父親との絆がどうとかいう若干ホロリと来るような感動要素もあるにはあるのだが映画全体のカラーとしてはダメ人間(というか規範的ではない人たち)が織りなすドタバタの団地コメディだったというのが個人的にはめちゃくちゃうれしい誤算だったんですよね。そこは本当に素晴らしかったな。
たとえばだね、本作の序盤はタイトルにも名がある主人公のリンダよりもその母親が主に描写されるのだが、それが控えめに言っても理想的な母親としては描かれないんですよ。ガサツで家事は苦手だしいい加減な言動だし電話しながら車の運転するしあまつさえ娘であるリンダにビンタしたりするのである。そればかりか誰がどう見ても完全に犯罪だろそれ! という行為にも手を染める。これはもう昨今の正しい母親像(笑)からはかけ離れた不良母もいいところであろう。下手したら作劇上の悪役として配置されかねないようなダメ母っぷりである。
でもそれが良いんだよ。そんな風に人としてダメな部分が描かれるのはリンダの母だけでなくリンダ自身もそうだし、母の姉でありリンダの叔母である人もそうだし、それ以外の登場人物もほとんどが適当で不真面目で理想的な人間からはかけ離れた描写をされる。その理想的ではなく正しくもない人間たちの姿がリンダとチキンを巡る騒動の中で団地中を巻き込み、そこにある正しくはないが生々しくて活気があって楽し気な人間同士のわちゃわちゃとしたぶつかり合いとして描かれるのである。その取るに足らない等身大の人間感があらゆる意味での「正しさ」から解放されているようでとても心地のいいものだったんですよね。
でもそれはきっと俺がどれほど言葉を尽くしても多分本作を観ていない人には伝わらないであろうと思う。何故かというと本作は何よりもビジュアルの映画であるからだ。フィルマークスでこの感想文を読んでいるのであれば少なくとも本作のメインビジュアルである鶏を抱いたリンダの姿には目を通していると思うが、一般的な日本の、というか日本以外のアニメ作品を含めてもかなり個性的なビジュアルをしているのが分かるだろう。一見しての印象はまるでマティスやデュフィといった野獣派のような大胆な色彩である。だって黄一色のリンダと真っ赤なチキンだもんね。これは強烈な一枚ですよ。そしてそれを見れば各キャラクターにパーソナルカラーとでも言うべき色が設定されていることも何となく分かるであろう。その辺は非常にアニメ的、特に幼児向けなシンプルなアニメっぽい表現である。主人公のリンダは元気いっぱいな少女だから黄一色で表される、とかね。ただこのポスタービジュアル一枚では分からないことだが、劇中ではその各キャラクターに配された色というのは絵としての輪郭線をはみ出して人物の外へと飛び出していってしまうのである。
これがめちゃくちゃ効果的な演出になっていて非常に良かったですね。というのもアニメーション、というか絵というのはどうしても逃れられない原則として実写と違ってそれを記号として見せざるを得ないという性質があるじゃないですか。例えば本作にはリンダが飼っている猫が出てくるが、それは実際の猫ではなくて猫のように見える線と色の集合体なわけである。つまり猫のような記号でしかない。そして本作の各キャラクターにそれぞれの属性を示すものとして配されている色もまた記号であり、それは非常にアニメ的な表現なわけなんですよ。記号を属性へと変換して、ある種の固定したイメージを喚起させるためのテクニックです。だが上記したように本作ではその色は時折輪郭を飛び越えてしまう。これはどういうことなのかというと、アニメ的表現のお約束とかその固着化されたルールからの逸脱に他ならないと俺は思うんですよね。
時として記号がその枠をはみ出ることもある。その予想外というのは母親のキャラクターが思っていた以上にダメな人だったように、亡き父との感動エピソードが語られるのかと思ったらそうでもなかったように「こういうものなんだろうな」という法則を越えていってしまうことの可視化なんだと思うんですよ。それはステレオタイプなイメージの打破というだけではなく、劇中でころころと変化していく登場人物たちの姿にも表れていると思う。この感想文では散々リンダの母親はダメな奴だと書いているが、各々のパーソナルなものとしての色が枠線を越えて常に変化し続けるこの映画の中では彼女はだらしない人間に見えるときもあれば頼もしい人間に見えるときもあり、母親のようでもありただの女のようでもあり、また姉と一緒にいるときにはかわいい妹のようにも見えるのである。時にはリンダとの関係性が母娘ではなく友達のように見えるときさえある。
そしてそれはリンダにも当てはまることで、彼女の立場も作中でころころと変化していき様々な人間関係の中で複雑に絡み合い、それぞれの立場や行動の意味が常に移り変わり続けていくのである。作中で物語を引っ張る要素として追い追われる関係があるが、リンダが何か(何かっていうかチキンだが)を追っているときもあれば他の何かに追われている場面もある。だがそれらはシームレスに変化することであり、彼女は常に何か(まぁチキンなんだが)を追うという単一な属性を帯びた存在ではなくてチキンを追いながらも別の立場に立っているということが何度も描かれるのである。
それが各キャラクターにパーソナルカラーが配されていながら、それが輪郭をはみ出て広がっていってしまうという逸脱と結びついて本作のどこまでも自由な解放感をもたらすのだと思う。現実の社会活動の中でも絵画という表現様式の中でもある程度のルールはというものは存在するが、それは可変性のあるものであり、何よりも遊びの中ではころころと形を変えてしまうものなのだ。それもただの遊びじゃなくて子供の遊びだともう形無しだよね。こっちの方が楽しいってなればそっちにルールが変更されてしまう。本作にはそういうフレキシブルさがあった。
本作はあらゆる意味での「正しさ」から解放される物語だと上で書いたが、本来そこには厳密な意味での「正しさ」も「誤り」もないんだよ。子供の遊びっていうのはそのさ中で常により楽しい何かに生まれ変わり続けるんだから。今あるルールが別のルールに切り替わる可能性は常にある。それが本作の非常に個性的なビジュアルに表れているんですよ。
凄いよなぁ。多分終盤の団地のシーンとかは5月革命からの引用だったりするんだろうけど、子供の姿を通してそういうモチーフを忍ばせる手腕とかは唸ってしまうよ。本作を観たかどうかは知らないけど押井守がこの映画を観たらきっと声を上げて悔しがると思うよ。
まぁそのように本作は母親を含めて色々な意味や立場での解放の物語なんだけど、亡き父との結びつきを求めたリンダが辿り着いた先がこれなのだと思うと本当に素晴らしいよなって思うよ。もっとその境界から、輪郭から先に出ろっていう映画ですよ。アニメーションという表現様式でしかあり得ない実に実に素晴らしい映画であったと思う。ここも『父を探して』と似た味わいがある部分だったな。
一羽の鶏をあれだけの人数に振る舞うのは無理だろう、とかそういうツッコミはあるが、まぁそこはご愛敬ということで。あと俺は吹き替え版で観たのだが母親役の安藤サクラは本当に素晴らしい仕事をしていました。信じられないくらいにただの母親だった。しかし吹き替え版は良かったけど個人的に字幕版も観てみたいのでもう一回観るかもしれないですね。同じ映画を劇場で二回以上観ることはとても少ないので、これは相当気に入っているということです。
とてもいい映画だった。気の抜けるような緩いミュージカルシーンもいい。
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