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エリアンと魔法の絆のLCのレビュー・感想・評価

エリアンと魔法の絆(2024年製作の映画)
3.8
面白かった。

10代の主人公が、闇に囚われ姿を変えてしまった両親との「家族の日々」を取り戻す為に、不思議な景色の中を「頑張って前向きに」進んでいく物語。

「 spellbound 」とは、「魅了され、魔法によって縛られたような状態のもの」という意味の言葉だけれど、分解して見てみると、もう少し面白いかもしれない。

例えば、「 bound 」は元々「エコーとして戻ってくること」を指す言葉から来ている。
作中、そのものズバリ「 Echo... Echo! 」と不思議な現象を楽しむ場面があったね。
その時の視覚的な反響を思い出すとピンとくる通り、「跳ね返る」という意味も担うようになり、更にそこから「跳ね上がる」ことも表せるようになった言葉。
また、そのように跳ね回るものは、しばしば大人しくさせようと試みられるけれど、そうやって「固定された状態のもの」を表せるようになり、その様子から「強いられたもの」とか「義務」という意味も獲得している。
大人しくさせようと試みられた結果固定されても、跳ね回る意思を示す様子は、「出発可能な状態のもの」とか、「境界を定め、その中に閉じ込める」ことにも意味を広げていった。
主人公が背負う国政は勿論、彼女の両親が背負う「親として」の諸々や、縛り付けられて檻に入れられ、尚抗う姿、そんな彼らの選んだ物語の結末、そういったことにぼんやり重ねて見ることが出来そうな言葉だね。
物語の中に溢れている音楽も、楽しくぴょんぴょんと踊りまわる姿も、主人公のご両親がドスンと重量のあるジャンプをするのも、押さえつけられた体も気持ちも、それらの全てが詰まっていると言えそう。

そして、物語中に溢れているその「 bound 」は、「 spell (言葉にされるもの)」を土台として響き渡っている。
『モンスターって、10代の子特有の大袈裟な表現かと思ったわあ』みたいな、「言葉にされたもの(spell)」が上手く受け取られない景色は、物語の終盤でその影を大きくさせていたね。
言葉にされたものが、あちらへこちらへと反響し跳ね返り、誰かが身動きの取りにくい状態になったり、新しい考え方や感じ方に出会って、前へ歩み出したりしていく。

闇の森で闇に囚われると、姿形が変わってしまい、時間が経てばやがて、元に戻ることも叶わなくなる。
主人公も、その森で「自分の中にも闇があったらしいな」と気付いたりするけれど、彼らに限らず、誰にだってあるものだね。
では、「闇って具体的に何や」と言われれば、本作ではたぶん、「自分の考えを相手に強制したい、わからせたい」気持ちのこと。そして、わからせたい気持ちが強くなる場面て、相手がわかってくれない時だろうと想像できる。
作中でも、「私の言ってることの方が理に適ってる、安全で確実な方法だし、森を進む危険も、見知らぬ者どもの言葉に騙される危険もない」と愚痴を撒き散らすことで主人公にわかってもらおうとする、可愛い姿形の者がいる。
でも、その者が考える理に適った道は、主人公の気持ちを汲み取らないものだったね。
同じような「お互いに気持ちを汲み取り合えない」摩擦が、物語のそこかしこに描かれていて、主人公やその両親も、改めて向き合わねばならなくなっていく。

自分の気持ちを否定しないことと、相手の気持ちを受け取ることは、両立させようと試みるべきもの。難しいんだけれどね。
難しいからこそ、相手を問答無用で黙らせたり、言うことをきかせたり出来る力を持つ人は、その力を使わずにはいられなくなる。楽だから。
どんな気持ちだって、否定しなくていい。ただ、相手に押し付けないように、ひとりひとりが長い時間をかけて、訓練を続けて、解決の為の知恵を絞るもの。
子どもは勿論、大人もそう。
作中、複数の者がそうやって、試行錯誤、てんやわんや、どったんばったんするけれども、その辺り上手くやってそうな者も出てきたりする。
例えば、森に居たくないと、ぶーすか鳴き喚く者もいる、その森に住む者たちがいたね。
彼らはきっと、自分の気持ちを素直に認めながら、相手の言葉にも耳を傾ける、そうやって暮らしているから、闇に囚われずにパンを焼けるんだろうかな。
「ぼかあ嫌だね、ほんっと怖かったんだから」「うんうん、怖かったよなあ、わたしゃあそれでも、主人公のお手伝いしたいなあ」なんて、賑やかに言い合いつつ、いつも2人で寄り添い合っている。
素直な気持ちを受け止め合って、相手の言葉に耳を傾け合って、でも何かを強制し合うことはせず、次はじっくりコトコト煮込んだスープを作る、そんな日々を過ごしているように見える。

彼らは、「その呪いね、他者がどうこうするんじゃなくて、呪われた本人たちが頑張らなあかんのよ」と教えてくれる。
自分の気持ちを相手に強制しようとした結果、異形の者となった。
その者たちの姿形を、他者がどうこうしようとするのは、それもひとつの「気持ちの押し付け」になってしまうものね。
自分の「わからせたい、押し付けたい」気持ちに向き合って、認めて、相手も同じように「切実にわかってほしい気持ちを持っている」ことを、思い出す。
その上、呪われた彼らは「自分と相手の気持ちだけ」に集中するのでは、まだ不十分なのだ。頑張って笑ってる子が、いつも側に居るのだから。
何事も、本人の意思が大切。魔法だって、そこはいじくっちゃいけないし、いじくりたくてもいじくれない。
ただ、自分の気持ちを大切することは、他者の気持ちを大切にしないことを意味しない。自分の気持ちを大切にするなら、他者の気持ちを大切にすることも、忘れてはいけない。
主人公も、我慢する(自分の気持ちを蔑ろにする)のじゃなくて、素直に表現し、受け止めてもらう必要があった。そのおかげで、やっと呪いを打ち破る「 spell 」が発動したし、その後の暮らし方にも納得できたのだ。

友だちと遊び回って、みんなと過ごすお誕生日会。きっと、主人公は心の底から楽しめる。そのことが素直に嬉しい。
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