伊藤110番

Black Box Diariesの伊藤110番のレビュー・感想・評価

Black Box Diaries(2024年製作の映画)
1.0
よくある錯覚の一つにこういうのがあります。

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文字なので上手く表現できてないかもしれませんが、『矢印はどちらが長いのか?』という錯視の例です。

この『ミュラー・リヤー錯視』は、線の上下に矢印をつけるだけで、実際には同じ長さの線が異なって見える現象を指します(原因は、脳が遠近感や矢印の斜め線を無意識に判断しているため、とされています)。

この錯覚が示すのは、『見える』ことと『事実』は必ずしも一致しないということです。『Black Box Diaries』という映画も、表面上は事実に見えたとしても、実際にはその背後に制作側の意図や演出が隠されています。

この映画を観たとき、私が感じたのは、この錯覚と同じ『意図的な見せ方』によって作られた、事実とは異なる虚像でした。

「『Black Box Diaries』は、自身が被害にあった性的暴行への勇気ある調査に乗り出していくその姿を自ら記録した、これまでにない形のドキュメンタリー映画です。本映画の製作は、2017年、伊藤詩織が元テレビ局員の記者からの暴行被害を訴えた記者会見の直後に遡ります。実に6年もの製作期間を経て完成しました」

これは製作会社スターサンズのホームページ掲載されているあらすじの一部ですが、この内容も事実らしく見えても、事実ではありません。

そう見えてしまう、ということ自体に罪はありません。
しかし、「意図的にそう見せる」のであれば罪です。

これから、この映画について語るのは、「棒の長さは同じである」という事実です。
この映画には、そもそもの企画から、その演出方法に至るまで、様々な問題が含まれています。
前半はそれを事実ベースで解説し、後半は通常の映画批評のように「私の視点」でこの映画を語りたいと思います。

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【問題(その1)「初監督品」】
このサイトにも作品情報が載っているので検索して調べていただければ分かると思いますが、伊藤詩織監督には「Lonely Deaths」という中編ドキュメンタリー作品があり、2018年にニューヨーク・フェスティバルのドキュメンタリー部門で銀賞を受賞しています。また、2025年1月時点では未完ですが、「ユーパロのミチ」という作品もあります。

しかし、これを隠して『初監督作品』と宣伝するのは、可愛いごまかし、なのかもしれません。

【問題(その2)「性的暴行被害」】
この映画で扱われている性的暴行被害については、名誉毀損で訴えられてもおかしくない問題です。というのも、少なくとも法的には「性的暴行被害」は存在しないからです。事実として、刑事事件では不起訴となり、検察審査会でも不起訴相当と判断されています。一方で、民事裁判では『性行為に同意がなかった』と認定されましたが、これをもって『性的暴行被害があった』と断定するのは問題があります。

また、この映画のテーマの一つでもある「政権による捜査の妨害」という主張も、単なる推測に過ぎず、証拠は一切示されていません。もし証拠があるのであれば、行うべきは民事裁判ではなく国賠訴訟です。「証拠が出ないのは政府が圧力をかけているからだ」という主張もありますが、それを証明するのは伊藤氏自身の責任です。しかし、現実世界でも劇中でも、その証拠が示されたことは一度もありません。

【問題(その3)「調査に乗り出していくという誇張」】
映画内で伊藤氏が行ったとされる調査の具体例は、以下のようなものです。しかし、これらが本当に『独自の調査』と言えるのか、映画を観る限りでは疑問が残ります。

・タクシー運転手へのインタビュー
・「捜査官A」と呼ばれる人物と頻繁に会話
・当時の警察高官へ突撃取材
・「被害現場」のホテルで勤務していたドアマンと電話

映画の紹介文などには「自ら」「独自に」という表現がしばしば使われますが、映画の中では「自ら」が「独自に」調査する姿はほとんど確認できません。実際には、警察や弁護士からの情報を元に関係者にコンタクトを取っている可能性が高いですが、映画内でその過程が描かれない以上、「調査に乗り出していく」という表現は、大いに誇張されたものと言えるでしょう。

【問題(その4)「事実や、著書の内容と相違する演出」】
①「警察高官への突撃取材」
周囲に写る風景から、いわゆる「ロケ地」が特定された結果、明確に事実とは違うことが判明した演出の一つです。
写っているのは、当時の警察部長の自宅近辺ではありません。
車を走って何百メートルも追いかけることも、不自然です。
これらの点においては完全に「フィクション」と言うべきものであり、完全にドキュメンタリーの枠からは外れています。

②密会場所として映し出されている背景
これも前述の「突撃取材」と同様、背景を加工をしなかったため、撮影場所が特定された結果、2015年には存在するはず物が映画の中には写っておらず、時期が2019年以降のものであることが判明しています。
ただの「イメージカット」である、と考えることもできますが、わざわざ車に乗り込むような音が入っていること、劇中で2015年の出来事であることが強調されていることから、意図的にイメージを作っていることは明白です。
一部で話題になった「未承諾映像の使用問題」で、伊藤監督は「アニメなどを使うことは考えられない」とし、「実際の映像を使う」ことを強調していますが、撮影時期を偽って映画に採用したことで、自身の発言との間に矛盾を生じさせています。

③密会場所で交わされる会話
原作本『Black Box』では、逮捕当日の6月8日に「捜査官A」から電話で「逮捕取りやめの事実」を知らされると記されていますが、映画では6月23日に車内で直接その事実を聞くシーンとして描かれています。本と映画のいずれも「ノンフィクション」として描かれているため、どちらかが事実ではないことになります。

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【私の視点(その1)「映画の日本公開について」】
伊藤監督はこの映画の日本公開を当面の目標と語っていますが、その実現には大きな障害があるように思えます。

映画内で使用されている「ホテルに連れ込まれる姿が映った監視カメラ映像」は、裁判以外での使用を禁止する誓約のもとに提供されたものです(一部のインタビューで「映像は購入した」と語っていますが、事実ではありません)。この映像が映画で使用されている事実は、誓約違反に該当する可能性があり、法的な問題を引き起こすリスクがあります。また、配給会社から見れば、公開差し止めのリスクにもなり得ます。
さらに、この映画には「被撮影者の承諾を得ていないインタビュー映像」や「警察官や弁護士との秘密録音音声」が含まれており、前述の「監視カメラ映像」と同様に倫理的・法的な問題を抱えています。

これらの問題が解決されない限り、日本国内での公開は非常に困難であると言えるでしょう。

伊藤監督のインタビュー記事などを読む限り、こうした問題に対応する修正を行う意向は見られません。むしろ、映画の構成や編集には、初めから外国での公開を意識した演出が散見されます。
例えば、伊藤氏に有利な描写は彼女自身が翻訳して観客に伝える一方、「加害者」を悪者に見せるシーンでは英語の記事をそのまま画面に映し出す手法が取られています。これにより、日本の観客には異なる印象を与える可能性が高く、日本公開の際に大幅な再編集が必要となるでしょう。しかし、このような編集作業を行うことは現実的ではありません。

これらの点を総合的に考えると、映画の制作段階から日本公開が主要な目標ではなかった可能性が高いと推測されます。日本公開を目指すと語ってはいるものの、具体的な対応が見られないことは、その意図を疑わせる要因と言えるでしょう。

【私の視点(その2)「劇中イベントの説明不足」】
この映画の中で触れられている大きな出来事は、以下のものです。

2015年4月:伊藤詩織氏が「加害者」とされる男性と会食。会食後、ホテルに運ばれたとして「性被害」を受けたと主張。伊藤氏が警察に被害を相談し、捜査が開始される。

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2017年5月29日:伊藤氏が記者会見を開き、実名と顔を公開して「性被害」を公表。当時の首相とも昵懇で社会的地位の高い「加害者」を名指しで告発。この実名告発以降、伊藤氏に対するネット上での誹謗中傷が激化。中には殺害予告や「売名行為だ」との批判も。

6月:国会で希望の党(当時)の議員が、本件について一般質疑を行う。警察による逮捕状執行停止の経緯についても議論が及ぶ。

10月18日:伊藤氏が告発本『Black Box』を出版。本書で事件の詳細を公表。
同月22日、第48回衆議院議員総選挙が実施される(この選挙を機に事件への関心が一時的に薄れる)

11月:本件が検察審査会で審査され、「不起訴相当」と議決される。

12月:伊藤氏が民事裁判を提訴。「性行為に同意がなかった」として損害賠償を求める。
同月18日、「加害者」とされる男性が記者会見を開き、自身の無実を主張。この会見に伊藤氏が記者として参加し、質問を行う。

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2019年12月18日:民事裁判の第一審判決が東京地裁で下される。伊藤氏が勝訴し、被告に対し330万円の損害賠償が命じられる。判決では「性行為に同意がなかった」と認定される。

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2022年7月7日:最高裁が「加害者」とされる男性の上告を棄却し、高裁判決が確定。伊藤氏の勝訴が最終的に確定する。
同月8日、安倍晋三元首相が奈良市での街頭演説中に銃撃され、死去。

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伊藤氏のことをよく知らない鑑賞者が、劇中の出来事を正確に理解できたでしょうか?おそらく、事前に事件の詳細を調べていない限り、ほとんどの人が困難だったと思われます。

この映画のオープニング時点で、「加害者」とされる男性は既に不起訴となっています。その処分を不服とした伊藤氏が顔出し会見を行い、さらに検察審査会へ審査申し立てをしようとしていた、というのが序盤の出来事です。しかし、これを映画内で理解するのは非常に難しいでしょう。監督自身が「法律面などのバックグラウンドの説明を避けた」と明言しているため、事件の経緯や法的な背景については一切説明されず、観客は何が起きているのか分かりづらいまま物語が進んでいきます。この点は、この映画の大きな欠点と言えるでしょう。

さらに、「事件」後に伊藤氏が「加害者」とされる男性に送ったメールについても、映画では一切触れられていません。具体的には、事件後に送られた「お疲れ様です」というメール、続いての「妊娠した」という疑惑をほのめかしつつ、相手を威圧するようなメール、さらには謝罪を迫るメールなどです。これらは、著書『Black Box』ではかなりのページ数を割いて説明(伊藤氏に不利な印象になるものは著書ではカット)されていますが、映画では、メールの存在そのものが完全に省略されています。この省略によって、伊藤氏の行動や人間性に関する重要な側面が観客に伝わらず、事件の全体像を把握することがさらに難しくなっています。

また、著書では重要なテーマでもあった「デートレイプドラッグ」の使用に関する主張についても、映画では一切触れられていません。民事裁判では、この主張が証拠不十分であるとされ、名誉毀損が認められています(つまり、この件について伊藤氏側は敗訴しています)。こうした伊藤氏にとって不利な要素が完全に省かれていることは、映画全体の信頼性を大きく損なう要因となっています。

【私の視点(その3)「映画の文法上の問題」】
この映画には、イメージカットが多用されています。
これは、山崎エマや、岡村裕太というベテラン映画制作者の手によるもので、これらのカットは非常に洗練されており、視覚的には見応えがあります。しかし、カットとは映画における最小単位であり、それ自体が映画の全体構造を支えるものではありません。
新規に撮影されたイメージカットや、個々のカット同士のつながりは確かにプロフェッショナルな仕事と言えますが、これらを組み合わせた「シーン」、さらにそのシーン同士をつなげた「シークエンス」としての構成になると、途端にその完成度が大きく落ちてしまいます。結果として、映画全体の流れが不自然で、お粗末な印象を与えています。

例えば、伊藤氏が遺書代わりのビデオを撮るシーンがあります。このシーンは非常に唐突で、彼女がこの行動に至るまでの心理的な過程が全く描かれていません。そのため、観客は彼女の感情に共感することが難しく、ただ『泣いている』という映像だけが残る結果となっています。

また、多くの人が感動的な場面として挙げる「ドアマンが協力を申し出る」シーンも同様です。この場面では、ドアマンの言葉に伊藤氏が泣き崩れるのですが、彼女の感情の流れが十分に描かれていないため、観客はその感動に共鳴しづらいのです。特に映画後半ではこうした描写が目立ちます。「事件」現場を一人で訪れた際に過呼吸気味になり、自宅に戻って「どうしたらいいのか分からない」と涙を流すシーンも、彼女が泣くに至った状況や心理がほとんど説明されていないため、ただ漠然と「辛い」「悲しい」という印象しか伝わりません。

結果として、伊藤氏が被写体として写っている場面であっても、それは彼女の内面や状況を深く掘り下げたものではなく、単なる「イメージカット」と同じような役割しか果たしていないと言えます。

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ドキュメンタリー映画。それは事実そのものではありません。
「Black Box Diaries」という映画、これもまた事実そのものではありません。

彼女のことを応援する人達には、この映画が「一人の女性が勇気を持って社会に立ち向かう、今までにない型破りのドキュメンタリーで、無類の価値を持つ作品」と見えるでしょう。

彼女のことを批判し、疑問に思う人達には「具体的なことは何一つ説明せず、全てが曖昧で、その場の気分でごまかす、偽りと欺瞞と不誠実に満ちた作品」であると映るでしょう。

彼女のことをよく知らない人達にとっては、「綺麗な女性が、流暢な英語でしゃべり、笑って、泣いて、そして苦闘した」という印象を持つでしょう。

この映画は、表面上は事実に基づいた問題提起のように見えますが、その背後には多くの矛盾や誇張、さらには意図的な演出が隠されています。結果として、観客に残るのは『事実に基づいた議論』ではなく、制作者の意図に歪められた曖昧なイメージだけです。

本当に社会問題に光を当てたいのであれば、ドキュメンタリー映画には事実に基づく透明性のある描写が求められます。しかし、この映画が提供するのは、『ジャーナリズム』ではなく、『自己表現』に過ぎません。そして、この自己表現が空虚であるがゆえに、観客は自身の先入観や感情を映画に投影することしかできないのです。

この意味において、『Black Box Diaries』は『ジャーナリスト、伊藤詩織』そのものを象徴しています。

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【追記】「映画制作における倫理的問題」
東京新聞による報道では、日本の女性記者たちが非公開の集会で語った性被害に関する映像が、発言者の許諾を得ないまま映画に使用されていたことが指摘されています。この問題に対し、伊藤氏は『削除する』と約束したものの、最終的にはその約束が守られませんでした。

こうした行動は、映画制作における倫理観の欠如を示しており、作品全体の信頼性を大きく損なうものです。この問題を軽視することはできず、映画全体のテーマやメッセージにも影響を与える重大な欠陥と言えるでしょう。
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