まぬままおま

ピアノ・レッスン 4Kデジタルリマスターのまぬままおまのレビュー・感想・評価

4.5
手が触れると悲しくなるときがある。

強張った感触を得れば、〈あなた〉の声は美辞麗句を並べただけで、〈私〉を許してないことが分かるし、安心の感触はその柔らかさと共に〈あなた〉との隔たりを自覚させる。手は声よりも本当のことを語り、〈私〉と〈あなた〉がどこまでいっても一緒になれないことを告げる。その悲しみ。

エマニュエル・レヴィナスが同様のことを既に言っている。
「愛撫は、そこに存在するものを、いわばそこに存在しないものとして探求する。いうなれば、この場合、皮膚は自分自身の撤退の痕跡であり、それゆえ愛撫とは、このうえもなくそこに存在するものを、不在として探求し続ける焦慮なのだ。接触しつつも合致しえないということ、つまりは限りない露出(デニュダシオン)が愛撫である。隣人が隙間を埋めることはない。皮膚の柔らかさ、それは接近するものと接近されるものとの間隙にほかならず、この間隙は離散性、非志向性、非目的性である。その結果、愛撫の無秩序が、隔時性が、現在なき快楽が、憐憫が、苦悶が生じる。近さ、直接性、それは他人によって享受し、他人によって苦しむことである」(p.216 、 E.レヴィナス『存在の彼方へ』)

本作では「触れる」運動が重要だ。声を発しないエイダがピアノに触れる。夫のスチュアートがエイダに触れられる。スチュアートのビジネスパートナーのベインズやマオリ族の皆がピアノに触れる。その触れあいは、愛撫にも暴力にも転化する。しかしその時、嘘や本当が顕わになって、快楽と苦悶が生じる。

だから私は本作の嘘と愛撫と本当の〈声〉が発せられないスチュアートについて語りたい。

以下、ネタバレと性的表現を含みます。

現在において、本作に触れた私は、本作について語られた多くのことが嘘のように思えてしまう。
「エイダは家父長制に抗った人物だ」「エイダはピアノの音色で声を発している」「エイダはセックスによる性的快楽で主体性を獲得した」「レッスンと引き換えに手に入れたのは、世界にひとりだけの「私」」「自分らしくありのままに生きようとするヒロイン像の原点」

このようなことを本作は描いていない。本作には嘘が多すぎる。そもそも「ピアノ・レッスン」が、ベインズがエイダに近づくための取引であり、嘘であるわけだし、娘のフロラがエイダの声を「翻訳」するが、でたらめといって過言ではない。劇中劇の影絵による斧の切断も嘘なのだ。

だから上述の語りをひとつひとつ検討すれば嘘はすぐに分かる。
エイダはスチュアートに対して妻として所有化を拒否しただけで、ベインズに対する所有化はむしろ望んでいるから家父長制に抗ったわけではない。

エイダは音としての声は発していないが、〈声〉は常に発している。それは手話としての身振りであり、何より「顔」だ。彼女の顔は声以上に多くのことを発している。さらにピアノの音色が代弁しているわけではない。なぜエイダは演奏中にベインズに弄られても「美しく」弾くのだろうか。その音声イメージを聴いても苦悶は読み取れない。むしろエイダが〈声〉を発するのは、ピアノから手を離し、演奏を中断し、後ろを振り向く顔でしかないだろう。

セックスによって主体性を獲得したのも間違いだと思う。それならば娘のフロラの存在やその関係をどう説明すればいいのだろう。エイダが「産む機械」としてフロラを出産したならば、なぜ前夫との出来事を楽しげに語り、娘と添い寝するほど親密なのだろうか。

別にレッスンと引き換えに「私」を手に入れたわけでもない。ピアノはエイダのモノであって、エイダ=ピアノの等号は成立する。だから、レッスンごとに黒鍵を手に入れて「私」を手に入れる≒取り戻すことは言える。けれどそれならば、なぜレッスンはベインズがエイダを「手に入れたこと」で中断し、ピアノは返されるのだろう。そこにエイダの家父長制に抗うアクションも努力も「主体性」も見出せない。

自分らしくありのまま生きようとしたわりには、社会規範から全く逃れていないし、「ありのまま」を「性愛に奔放」と捉えていいのだろうか。

本作には嘘が散見される。しかし私は嘘が決して悪いこととは思わないし、むしろ嘘と本当の混濁した様を巧みに描き、女性性以上に人間性を的確に語ったことが本作の素晴らしさだと思う。

フロラの翻訳はでたらめかもしれない。けれどエイダの本当の心情を語ってはいる。劇中劇の斧の切断は、観劇者のマオリ族に本当のことだと思わせ、劇と劇中劇の攪乱を行わせている。物語自体の「本当の」悲劇にも転じる。嘘は本当と化す。けれどベインズの〈声〉は、エイダを恋い焦がれる「本当」を語ると同時にセックス後、再会を望む騙りに転じる。本当もまた嘘に転じる。

本当と嘘の白黒は、ピアノの白鍵と黒鍵にリフレインされる。ピアノは白鍵と黒鍵の両方がなければ美しい音色は奏でられない。だから私たちもまた本当と嘘を奏でて生きていかなければならない。それこそ人間性だろう。そしてこのことを本作では衣装の白黒でも巧みに描いている。

エイダはポスタービジュアルのように日常生活では黒色のドレスを着飾る。それは本当を語らず、嘘で取り繕っていることだろう。けれどそれはスチュアートとの夫婦関係を穏便に済ませるひとつの手段であるし、スチュアートも髪を整え、取り繕うのだから誰しも日常生活で行っていることだ。しかし嘘は綻びるし、本当は現れてこない。本当との隔たりを生じさせ、訝りを生む。だから私たちは嘘の衣装を、幕を、ベールを脱がなければならない。それがエイダにとって、ベインズと出会うことやピアノ・レッスンであり、黒色のドレスから白色の下着への着替えだ。そして白色の素肌を露出させるのだ。

手が肌に触れる。愛撫し合う。その時、エイダは声を発せずとも、手が、顔が、肌が〈声〉を発する。その〈声〉はベインズに本当のことを語る。それはエイダにとって喜びであるが、スチュアートではなくベインズであることに物語上の悲しみが伴う。

本作で最も〈声〉を発していないのはスチュアートだ。スチュアートが家父長制の表象であることも嘘だと思っている。それはラストにさしかかるスチュアートがエイダの指を斧で切断させる暴力性に裏打ちされている。しかし彼がそのようなアクションに向かってしまったのは日常生活で家父長らしく振る舞えずエイダを支配できなかったからだ。スチュアートはエイダの嘘を、影を、背後をみれない。彼はエイダが声を発しないから、正面を向かざるを得ない。しかしそれも二人の結婚記念写真のように互いが正面を向いても、視線が交わることはない。結局、スチュアートは何もみていないし、本当のことを言い出せない。本当はエイダがピアノを弾く後ろ姿をみなくてはいけないのに、本当ではない予感に、訝りに拘泥してしまっている。

エイダはスチュアートに背後をみせないのだが、スチュアートはエイダに背後をみせる。それは、寝ているスチュアートの背後をエイダが触れる時だ。
スチュアートは訝しむ。なぜ触れてくるのかと。手を繋ぐことはできたけど、キスすることもセックスもできていないのに。触れられる快楽はある。けれどその快楽はすぐに過ぎ去り、訝りに転じる。なぜ触ってくるのか?これはエイダなりの愛情表現であり愛撫なのか?私はエイダに許されているのか?なら私も触っていいのか?と。けれどその出来事をみた私たち観賞者は分かる。エイダはスチュアートの肌でベインズの不在を、その痕跡を触っていることに。スチュアートはベインズになれないし、スチュアートとエイダも一緒になれない。深い悲しみが横たわっている。そして何よりスチュアートはエイダに素肌をみせることができない。本当を曝け出すことができない。ならば黒色の衣装を纏ったままのスチュアートがエイダを「貫く」ことも、衣服を着たままの野外でのセックスが未遂に終わることも必然なのだ。

だから本作が悲劇に転じたのは、エイダがありのままに生きたからではなく、スチュアートがありのままに生きられなかったからだと捉えることはできるだろう。

そしてラストは真偽を放擲させている印象を感じてしまう。エイダが死んだとしても、水中に沈む彼女は衣服を着たままだから嘘のように思えるが、光が射しているから本当とも思える。エイダが生きているとしても、彼女は別のピアノと等号が成立しているし、家には白いカーテンがあるから本当のように思えるが、彼女が纏うベールは黒色だから嘘のように思える。死んだのならば彼女がナレーションとして語る時間はどこに存在するのだろうか。けれどそれが映画なのかもしれない。

白黒は別にもある。それは私たち観客が溶け込む闇の劇場とスクリーンの白だ。私たちはエイダがピアノを弾くように、正面を向いて本作をみなければならない。映されたものは本当だ。では私たちの生きる時間は嘘なのか。嘘と本当が混濁している。訝りが生じる。本当が背後にあるかもしれない。私たちはどこまでいっても本作に触れることはできない。触れたことを知覚することと同一化して語る/騙るしかできない。それもまた悲しみかもしれない。でも必要なのはスチュアートができなかった背後をみることと本当を曝け出すことだ。スクリーンの背後にある本当をみること、曝け出すこと、それだけが私たちの生が悲劇に転じない手立てかもしれない。これが本作で描かれていることだ。

参考文献
E.レヴィナス(1974):“Autrement qu'être ou Au-delà de l'essence”,Martinus Nijihoff(合田正人訳(1999))『存在の彼方へ』講談社