カラン

理由なき反抗のカランのレビュー・感想・評価

理由なき反抗(1955年製作の映画)
3.5
ジム(ジェームズ・ディーン)は泥酔し路上で突っ伏しており、ジュディ(ナタリー・ウッド)は家出中のところを、プラトー(サル・ミネオ)は子犬を拳銃で撃ったので、少年課に補導される。。。警察署に家族や家政婦が迎えに来て、暴れて、やっとそれぞれの家路についた翌朝、ジムのドーソン高校の初登校になる。。。

☆不眠

おそらく映画冒頭の酔っ払ったジムの姿から、ラストシーンまでに24時間が経過していないのではないか?映画内の時間の経過はごく自然だし、劇的な盛り上がりを迎えるので、盛りだくさんの展開である。彼らは、寝ない。寝るとまずいことになるのだ。寝たのはプラトーで、彼には悲劇が起こる。プラネタリウムが出てきて、赤いぐるぐるが渦巻く。夜は寝てはならないので、昼間はプラネタリウムでぐるぐるになるのは良いのだが、もう少しストーリーに乗せた方が良かっただろうな。


☆プラトー

Platoとは古代ギリシアの哲学者である。プラトニックラブとは汚れのない純愛のことだが、あれは新プラトン主義と言われるプラトンの弟子たちの発想に由来する。本作において、この古代の哲学者の名前を与えられたプラトーは、死ぬ。彼は子犬、バズの手下の不良、警官に発砲したのだから、死ぬのだ。このプラトーに冒頭、警察署でジミーは自分の着ていたジャケットを着せようとする。プラトーは拒むが、翌朝にはジムのことが好きになっている。死ぬ前には銀色の拳銃を2人で触りっこ握りっこしている。ジムの例の赤いブルゾンを最後は着る。


☆プラトーかジュディか

「ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか?、、、み〜んな悩んで大きくなった。大っきいわァ、大ものよォ!」という歌が昔あったが、本作が面白いのはプラトーがソクラテス(ホモセクシャル)であるかどうかではない。ジェームズ・ディーンがジュディとプラトーのどっちを取るのかである。ジミーはどちらも選ばない。しかし若者を拐かす(かどわかす)ソクラテスが死ぬことになる展開となるので、彼は否定的にプラトニックラブを選択することになる。ジミーはソクラテスでなかったのか?ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか、み〜んな悩んで大きくなったのに。

この映画がつまらないのは、ここだ。プラトーは映画史上初のティーンエイジャーのホモセクシャルであったはずが、自己検閲して、ホモセクシャルを完全に消滅させる。プラトーかジュディかの性選択の岐路にジミーを立たせることもなく、一晩経つうちに年少の青年が死んだので、札付きの悪と付き合ってたはずがいつのまにか可愛くなったナタリー・ウッドとジェームズ・ディーンが人生に向き合う大人になるという、1番つまらない展開に向かう。唐突に映画を売り物にするべく、なし崩しにしているのだ。

父親がフリルのついたエプロンを着ていることに不満を爆発させていたジミーの孤独は、手垢のついた若者の反抗に成り下がる。理由は確かにないが、容易に推測できる、そういうありふれた反抗である。


☆ヒット

本作は現在の価値で8000万ドルを超える規模の興収を得たのだという。若者のホモセクシャルを検閲して、殺して、『カラマーゾフの兄弟』のイワンが怒りだしそうな展開になっているのに、よく売れた。当時、Gパンは若者のファッションとしても認められていなかったようだ。そういうことなのだろう。真っ赤なブルゾンの襟を立てて、くわえタバコのジェームズ・ディーンは、性選択ができない理由を父親のせいにして暴れ回る、うっとうしいふにゃふにゃ君であるが、背の低いナタリー・ウッドの肩をつかむとカッコよく見えちゃうのかな。

なお、本作の社会に適応できない若者たちの家は皆がそれなりに裕福である。1番金持ちはプラトーの家。このおぼっちゃまのプラトーは、『ハロルドとモード』に繋がったのだろうか。バタフライナイフでやり合うシーン等は『ウェストサイドストーリー』(1961)に影響を与えただろう。

ジェームズ・ディーンは撮影終了から半年後の24歳時に自動車で事故死、ナタリー・ウッドは1981年に43歳の時に水上で不審死、サル・ミネオは1976年に37歳で路上で刺殺されて、それぞれ早逝している。


☆ショット

階段に母親。反対側に脆弱な父親。真ん中でジェームズ・ディーンが泣き言を言っているのだが、その際の左右の傾いたローアングルが良かった。階段ごと母親が崩れ落ちてきそうだった。


Blu-ray。5.1chはリアにほとんど音が入っていない。
カラン

カラン