きゃんちょめ

めまいのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

めまい(1958年製作の映画)
5.0
ここでは、窃視と記号、女性と鏡、メタファーとメトニミーという概念を用いて『めまい』について考えてみたい。

『めまい』は突如断片化されたキム・ノヴァクの眼球周辺のクロースアップから始まる。クロースアップというのは、奥行きがなくなる。奥行きがなくなるとアイデンティティが分からなくなってしまう。眼球だけじゃ誰だか分からない。しかし女性の目だということくらいは分かる。つまり、「女性性」しか分からなくなり、主体性は剥奪され、対象化される。ジュディも横顔(プロファイル)としてクロースアップされる。

冒頭では、眼球と渦巻きが二重化されている。渦巻きはなんのメタファーか。図像学において渦巻きは古くから理性を逃れる非理性の象徴であることは述べておく。なぜそれが女性の眼球の中に現れるのか。

そして、手のクロースアップ。しかしカメラは引き、追いかける男たちは全体像と顔が映される。スコティはいつも引き絵なのである。しかも、顔の全体が映される。男の場合はクロースアップを使わないということが最初の絵から宣言されている。

病院のシーン。「男がコルセットだぞ!?」というセリフがある。彼にとっての男性性の回復が問題なのだ。それがこの映画の裏テーマである。この時代の男は、トラウマで仕事を辞め、神経衰弱にかかっていく。高所が恐怖になる。高所は男性性の位格である。それが怖くなる。男性であることが不安になってきたのだ。

このシーンで、せっかく看病してくれるキム・ノヴァクじゃないほうの、元気いっぱいの女性ミッジには、男は見向きもしない。

昔の知り合いエルスターに、妻マデリンのあとを尾行してくれといわれる。

初めてマデリンを見るレストラン。カメラは、群衆の中で、幻想的な音楽の中を這い回り、まったくもって対象化されて現れたマデリンは横顔(プロファイル)である。わざわざカメラの前で停止するシーンすらある。なぜこんなシーンがあるのか、誰もが疑問に思うだろう。

わざわざ歩いてくるマデリンが隠れている主人公の前で横顔状態で停止するのである。これは、窃視をするためだと思われる。

尾行した先の裏通り。花束に囲まれたマデリンはまたもや後ろ姿ではじまり、ドア越しに横顔で停止する。画面の幅が特異的にせまくなる。なぜこのシーンだけ横幅がせまくなるのか。スコティに同一化させた目線で観客にマデリンを覗き見させてやるためだ。この映画は徹底して、窃視の快楽に満ちているのである。

この次のシークエンスはわかりやすい。①横幅がせまくなった窃視カット。②鏡に反射したマデリンをみているカット。真ん中に鏡があって右にスコット、左に横顔のマデリン。③また覗き見視点に戻って一人称にもどり画面の横幅がせまくなる。この3つのカットが、一連の繋がり(シークエンス)を作っている。

"男性が女性を見る"という構図は、"欠如としての女性"を見るという構図であり、これは去勢不安(=メデューサ的不安=見つかったらまずいという覗き見犯の不安)を煽るのである。だからスコットの立ち位置は暗く狭いのに対して、マデリンの立ち位置は開放的で明るく、花がたくさん並んでいる。

ファルスは記号である。この記号とは実物の欠如した像、虚ろな像である。ぽっかりと空いた穴がファルスであり、その欠如を埋めようとする営みが言語行為である。まさにこのとき、マデリンはこうした記号と化されている。ラカンはこのように、女性をペニスの欠如、かつ、そのことを記号化したファルスとして見ている。ファルスを所有しないがファルスであるのが女性なのだ。

②のカットでは、スコッティの置かれてる立場と精神構造が一枚の絵になっていた。スコッティにとってマデリンはあくまで記号であり、イメージであり、フェティシズムの対象であることが、この絵だけで分かるように画面が構成されている。この記号化されたマデリンは、あとでジュディに投影される。なぜ別物であるジュディにマデリンを投影できるかといえば、マデリンが既に記号だからである。

このファルスに意味と秩序を与えるためには、鏡像として映すしかない。というか、そうやって鏡に映してしか見れないから、スコッティの見るマデリンはいつも鏡に映っているのである。②の画面の左半分はちゃんと鏡に映ったマデリンになっていた。

さらに、このときこの女は、正体はマデリンではなくて、ジュディなのだ。つまりこの段階で、"つねにすでに"、(ジュディすなわち)虚像が虚像化したもの(マデリン)を虚像化したもの(フィクション)をみているのが視聴者なのである。ファルスは虚像としてしか見れず、その虚像を見るのが映画である。このシーンは三重の入れ子構造になっている。開始から約20分のこの絵には面白みが詰まっている。ヒッチコックがなぜ天才かといえば、映画が本来もつこの男性性と窃視の構造を、こうやって描いてしまったからではないのか。女性を男性が表象するには、鏡に映すしかない、と。

このあとも、執拗に、墓地にやってくるマデリンを覗き見る。美術館でもまた、マデリンを覗き見る。マデリンの髪の毛の渦巻きだけが切断される。渦巻きのクロースアップ。しまいには、カルロッタの絵画とマデリンを同一化する。女を平面化する。そしてここでも記号化が行われている。

ローラ・バルディーが論じた有名な橋の下のシーン。マデリンが海に落ちて、スコットがすくいだす。アパートに連れてきて暖炉に火をくべる。カメラがパンをして彼女の洋服を映す。これだけでマデリンを脱がしたことが分かる。

服はこのときメトニミーである。服はなんのメトニミーか。キッチンに濡れた洋服がかけてある。下着もある。ストッキングもある。"女性の衣服から身体への連続性"を画像だけで繋げるのがメトニミー(隣接性)である。「やかんが沸騰する」はメトニミーであり、メトニミーは合理的である。メタファーは非合理に接続し、メトニミーは合理的に接続する。冒頭の眼球の中の渦巻きメタファーである。ここでのスコティが見る幻影のアニメは見事である。
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