前の2作と比較すると、確実に違うポイントが2つあり、1つ目はコメディ色が入っているところである。
イーライ・ウォラック演じるテュコ、“卑劣漢”のキャスティングによるものである。何故、コメディパートが用意されているかが、とても重要で、これは全編に渡って根底にある、一つのテーマ、南北戦争、ひいては一般市民が兵士になることを描いているからである。戦争だけを描くには残酷かつ、特殊なものとして描けないからである。
直訳すると、善玉、悪玉、卑劣漢になるが、善玉と定義しながらも、信念においては人を撃つし、騙しもする。悪玉と言いつつ、北軍に潜伏した際に、傷付いた従軍兵たちに投げかける視線には、純粋な驚きと悲哀があった。卑劣漢と言いながら、誰かを撃った後や遺体に対しては、必ず十字を切る敬虔さがある。この3キャラクターを南北戦争のど真ん中に配したのが、あまりにも秀逸である。これが2つ目のポイント、映画のストーリーラインに、別のテーマを並行させている点である。
彼らの目を通すと、国のために戦っていることや、無益な戦争を止められないこと、思考停止して無駄死にしていくことが、あまりにも鮮やかに際立って見えてくる。背景の戦争に対して、「何をやってるんだろう、なんて不自由なんだろう」と思わずにはいられない。この対比を完成させたところに、今の僕の感覚的には、三部作でこの映画が一位である。ストーリー映画の構成美の一つの頂点だと思った。美しい設定と展開を観て感じるだけで、感動する。
そこに、前作からさらに磨きをかけたセルジオ・レオーネのショット、顔、顔、どんどん引いていくショットが、稜線を納めるカメラ。
小さなシチュエーションから、カメラが人物の動きに合わせて上手に動いていったところに広がり始める野営地や、墓地、北軍の駐留地など、レオーネ節とも言える一気に俯瞰・鳥瞰に上り詰めるカメラワークに、身震いしてしまう。この動きは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ウエスト』、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』にも引き継がれていく。
終盤、イーライ・ウォラックが、墓地を走り回るシーンは、言うまでもなく素晴らしい。こんなに墓石が多いのか、こんなに広いのか、見つけることが出来るのか、というイーライの表情と演技、それはこれだけ南北戦争で死んだ人がいたのだというダブルミーニングになる。グルグル回るカメラ、メッセージとストーリーをこれだけ見せ続けるレオーネの演出がバチバチに決まる。
生きているうちに、あと何回この映画を観られるか分からない。しかし、本当に良い映画は、こちらに鑑賞の余地を与えるし、前回と全く違った印象を与えるので、よくも悪くも変わるだろう。
それでも、イーライ・ウォラックが手錠を切るシーン、リー・ヴァン・クリーフがシチューを食べるシーン、クリント・イーストウッドが葉巻に火を点けるシーンには、モリコーネの曲が昂れば、自信を持って良い映画だと断言できる。