一体何を見せられているのか。
ショーン・ベイカー監督の作品をいつ見てもそう思わせる。
今作もこれまでと同じく、いやそれまで以上に人間が映画の中で描かれる。
本作をスクリューボールコメディにして悲劇にならない、させないのは主演の力強さだろう。
ベイカー監督が描く登場人物は生きる力に溢れている。
ストーリーは単純明快だ。
いわゆるシンデレラ ストーリーを批評的に描いている。
前半はセックスとパーティーで後半h追跡と対決というパートしかしない。
なのに上映時間は138分だ。しかしあっという間だった。
この上映時間をかけて描かれるのは登場人物が金に振り回されているということだ。
女性だけでなく男性もだ。金があるからなんでもできることになっている。金がないからセックスを差し出し、暴力を提供する。
主演である彼女は愛すらも売り買いできることを自らの体で表現した。
男性特に二人の若い男は権力者の道具だった。
金持ちの息子は愚かな行為を繰り返している。おそらく財産を守り増やすだけのために生かされることへの反抗だろう。彼が同じような金持ち連中ではなく、店番や調理場で働いている不良たちとしか付き合っていないのはどこか悲しかった。
そしてもう一人の男、ボディーガードも自分が使い捨ての駒だとわかっている。しかし彼だけが彼女に拙いながらも気遣いを行う。もちろん下心がないといえば嘘になる。だが彼だが源氏名であるアニーではなく本名のアノーラを名乗るように促す。
利用する利用されないという関係の外に出ようという、この作品の脚本も担当した監督の主張がここにあるのではないか。
ちなみにボディーガードの彼が「コンパートメント No.6」のあの男性っぽいなあ、あいつそのものだろうと思いながら見ていた。
見終わってあとまさにその役を演じていた人であり、監督がこの作品を見て彼にオファーしたと知った。
アカデミー受賞よりも驚いた。
ラスト 車の中での二人をどのように解釈するか。冒頭で描かれる個室でのサービスのようでありながら、その対比であることは確かだ。
彼女は彼の優しさに泣いたのか、彼もまた自分自身を性の対象にしようとしていると感じたのか、それとも彼女自身が男性をそのようにしか観ることができなくなったと気づいてたのか。
この映画は赤が印象的だった。そこからラストに雪が降り最後のシーンは白に囲まれる。それは情熱から平穏へと世界が変わっていくことをショーン・ベイカーは表現したかったと信じたい。