人生で1番、ぶっちぎりの量の多さでメモを取った。
ファスビンダーによるドイツ文学史の傑作の映画化。原作のリアリズムを尊重してか、幻想的な描写などなく、テキストを多数引用しそれらはホワイトフェードにより映される。
本上映(ファスビンダー傑作選2024)の字幕を担当した渋谷哲也氏のTwitterの、今年の6月27日付の(『エフィ・ブリースト』の上映決定、引用の)投稿より。「この映画はアンチ・ストローブ=ユイレの極致。同時録音の徹底的な拒否。抵抗するヒロイズムとは真逆を生きるヒロイン、使用する音楽もサン=サーンス。(略)」
上映前にこのツイートを拝見していた私は、以下の疑問が浮かんだ。「ファスビンダーはストローブ=ユイレを意識した上でその手法を否定してみせたのか、それとも、映画批評家にとってこの映画を分析する上でストローブ=ユイレに言及することは不可避で(彼らと手法が似ていて)、その中で差異を指摘しているのか」というものだった。映画を観れば、それは愚問だった。(特に後者はひどい)
この映画のファスビンダーの手法には、ストローブ=ユイレに共通するものは確かにある。テロップの引用がまずそうだろう。(この辺りは知識が不足しているため、憶測だが、)原作の文章がそのまま引用されている。これは文学的テキストの引用、映画ができないことへの内省的なアプローチに思える。
文学を映画化する際の文学的テキストの挿入というのは、明らかにストローブ=ユイレ的手法なのだが、ファスビンダーはそこに歩み寄っていないと明らかに断言できるのは、同時録音を行っていない点だろう。徹底的にアフレコで音を作成しているのは、特にエフィの娘アニーとの対話に顕著で、エフィの言葉遣いが大人びているのは原作準拠だろうが、その声まで明らかに少女のものではない。映画全体を通して、キャストの口の動きとアフレコの音声の一致には、そこまで完璧さを求めていない。
ストローブ=ユイレといえば長回しのイメージも強いが、本作にはいくつか長回しのシーンがある。特にラストシーン、劇的とは言い難く、観客が求めるそれとは違い、エフィの両親の的はずれな会話で本作は終わる。この、エフィが周りと和解したように見えて…という部分が本作の真骨頂なのかもしれないが、ファスビンダーの映画であることを踏まえると、ここには映画制作の精神が当て込まれているように思える。原作のテキストなしには映画化できなかった諦念だろうか。全て投げやりになっているように思えるラストだった。
演劇の繋がりもあり、初期にはストローブ=ユイレの作品にも出演したファスビンダー。その後どのような関係性があったのか、私は存じ上げないが、この映画の頃には完全に決別していたのであろうか。