カラン

チャンスのカランのレビュー・感想・評価

チャンス(1979年製作の映画)
5.0
老いたような、逆に、子供のような。死の臭いが立ち込めるピーター・セラーズの白鳥の歌。


☆ピーター・セラーズ

1980年に亡くなる。心臓発作だという。本作がピーター・セラーズの遺作となった。飄々とした彼の姿は、たしかに迫りくる死を喚起するものだが、それが彼の演技の効果なのだということは、エンディングを見れば分かる。本作はエンディングに切り替わる際に、ノイズの入った暗転した画面に監督のハル・アシュビーの名をだし、次に、やはり白髪で寝台に横たわり、セリフを言おうとしてゲラゲラ笑ってしまい、カットになるメイキングビデオを映し続ける。ピーター・セラーズのその笑い方は活力に満ちており、死の影は感じない。なお、このラストは特権的ではあるが映画の一部であり、キアロスタミの『桜桃の味』(1997)と同様に扱わなければならないだろう。


☆シャーリー・マクレーン

撮影当時は40代半ば。素っ頓狂で、若い頃よりも可愛い。人を見るときに少し伏し目になって、まばたきをしながら、しっかり見つめる。彼女には独特のテンポがある。ピーター・セラーズの映画だが、ためを入れて自分の間合いにするので、欲情するおばちゃんだが、しっかりセレブ感を保持。


☆ツァラトゥストラかく語りき

画面が暗い状態でぞっとする吐息の音から始まり、シューベルトの未完成交響曲とテレビによる印象的なオープニングのあと、エリック・サティが何度か挟まれたりするが、リヒャルト・シュトラウスの交響詩のトランスクリプションがもっとも重要である。なぜなら、これはニーチェが物語った山を降りるツァラトゥストラの代わりに、ピーター・セラーズが演じるチャンスという庭師が家を出て街に出るということを示しているのだから。原題は”Being There”で、ドイツ哲学のDasein、つまり「定在」とか「現存在」とされる概念を英語にしたものだろう。ニーチェの語る小児としての超人を、この映画の原題はDaseinであると呼んでいるように思えるが、その企図は不明。ピーター・セラーズは白髪の老人でありながら、子供として超人なのだと思う。being thereとは、ツァラトゥストラが山を降りて、世にでたことでもあるのかも。アメリカの大統領をマッチョな性豪のお馬鹿さんとして、他方でフリーメーソンのオカルトが裏で支配しているという構図の中で、ツァラトゥストラ=ピーター・セラーズが山に入り、木を植え、水上で遊ぶ。


☆撮影

素晴らしいロケで、冬の冷気と静けさをとらえる撮影をしたのはケイレブ・デシャネル。あのズーイちゃんのお父さんらしい。色調も素晴らしい。選りすぐりのロケを行なって、その素晴らしさを表現する撮影というのは当たり前であるが、素晴らしい。カメラが前に出る実験的な企図をとりわけロシアの作家たちは果たしてきたが、この映画はそちらには走らない。サム・メンデスの『エンパイア・オブ・ライト』(2022)は本作『チャンス』の水上の超越を劇中劇として引用するのだが、前者はデジタル撮影である。デジタルにせざるを得なかった理由が分かった気がした。デジタルで種々の加工をしなければ、自立した表現が作れないと思ったのではないか。それくらい本作が勝ち取った表現は圧倒的なのである。



Blu-rayで視聴。素晴らしいリマスターである。ガラスのクリスタルの明度や、温室の白濁したガラス、すりガラスごしのほこりの煌めきを観てもらいたい。
カラン

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