原作は『地下鉄道』を書いたコルソン・ホワイトヘッドだった。原作の『ニッケル・ボーイズ』も読んでいたのだが見事に忘れていた。『地下鉄道』の感動が強すぎたのかもしれない。
映画は原作と違いシミュレーション・ゲームのような視点で見せている。その手法にまず驚いた。最近のCG画像映画と同じだった。ただそこで明らかにされるのは「ニッケル高校」という少年院の存在を調べる人物がパソコン・ゲームのように資料を探していくなかでそのようなシミュレーション・ゲームが展開しれていくのだ。
事実として「ニッケル高校」という少年院で起きた犯罪の数々がある。それは黒人の生徒に加えられる暴力や学校の不正の数々の中で、ボクシングの試合で黒人の生徒が白人の生徒に負けるというのがシーンがあるのだが、ソニー・リストンとカシアス・クレー(モハメッド・アリ)との試合が当時あり、モハメッド・アリが勝つ。そうした60年代の時代を振り返りながら、キング・牧師のメッセージやケネディ大統領のアポロ計画など当時のニュース映像や黒人差別の写真を挟みながら映画は展開していくのだ。
その手法はモンタージュであり、映画の技術を折込みながら前衛映画(映画初期の実験映画)のように展開していく。たぶん、今の風潮は黒人差別をそのまま描いてもニュースにならないほど保守化されているのである。
そういうことはアカデミー選考でも問題になったのだ。だから黒人視点のこういう映画がノミネートはされる。しかし賞をさらっていくのはいままでと同じパターンなのかと思ってしまう。それは作品賞として、どちらが実験的で、どちらがエンタメ的なのか考えればわかる気がする。エンタメを否定するものではないが、経済で成り立っているのがハリウッドなのだと思うと、アカデミー賞の放映料を高くして、日本ではNHKぐらいしか放映できないとか。そういう裏話的なことを知ってしまうと大衆支持の映画が好まれるのかと思ってしまう。いや、ハリウッドの審査員の動向に左右される賞なのだ。いままで白人ばかり受賞したと言っても審査員が変わったわけではなく審査員を白人以外にも増やしたのだ。その中で黒人視点の映画がノミネートされた意義はあるのだろう。
モンタージュで鰐や馬の映像が詩的なのかもしれない。それだけにわかりにくい映画なのかもしれないが、黒人差別の現状は伝わってくる。