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L'oro di Napoli(原題)
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『L'oro di Napoli(原題)』に投稿された感想・評価

これは名作。マンガノを話した時に触れました。

このブログに少し書きました。
https://hgkmsn.hatenablog.com/entry/2023/12/11/001617

また、2017年に日伊協会の会報クロナカに書いた文章を貼っておきますね。

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ナポリの黄金、デ・フィリッポの《ペルナッキョ》

 ナポリの映画といえば、『ナポリの黄金(L’oro di Napoli)』(1954年)は古典的名作だ。6つのエピソードからなるアンソロジーで、監督はヴィットリオ・デ・シーカ、脚本にはチェーザレ・ザヴァッティーニ。出演者にはソフィア・ローレン、シルヴァーナ・マンガノなどの名前があるが、日本では劇場未公開。テレビ放映もされていない。

 注目はなんといってもナポリを代表する二人の喜劇役者。まずは喜劇王トトとして知られるアントニオ・デ・クルティス〔1898–1967〕が、ナポリ伝統の道化芸人パッツァリエッロ(ちんどん屋)を演じ、グワッポ(やくざ者)の横暴に右往左往して笑いを誘えば、映画のラストを締めるのは、ナポリ演劇界を代表する役者にして劇作家のエドワルド・デ・フィリッポ〔1900-1984〕。下町に暮らす貧しいバイオリニストとなり、人々から「先生」と尊敬される男を見事に演じるのだが、なんと、フランスで公開された時にはカットされたという。

 そんなデ・フィリッポのエピソードは、じつにディープなナポリを描く。その冒頭は「ドン・エルシリオ・ミッチョは知恵を売っていた」という字幕に始まる。イタリア語の「ドン〜」は、聖職者への敬称として「〜師」とか「〜卿」の意味が一般的だ。かつてはスペインやポルトガルなど外国の貴族にかぎり使われたらしいが、ナポリでは「スィニョーレ」の代わる一般的な敬称だ。貴族でも金持ちでもない貧乏な演奏家が「ドン・エルシリオ」と呼ばれる理由は、彼が売っているという《知恵》(saggezza)にある。

「ニンニクを10から12かけらすり潰し、それを腋の下に当てるんだな。そうすれば40度ぐらいの熱が出る」

 この《知恵》を授けられたのは若い兵士だが、不満をかくせない。「冗談はやめてください、ドン・エルシリオ。恋人と過ごしたいのに、どうしてまたニンニク臭くならなきゃいけないのですか」。
 ドン・エルシリオは動じない。まるで聞き分けない子供を諭すようなその言葉を聞いてみよう。

「いいかい、お若いの、外出許可を延長したいのかね。それともバラの香りをまといたいのかね。どちらかを選びなさい。ぜいたくは言うものじゃないぞ」

 けっきょく若い兵士は納得し、わずかばかりの代金をおいて部屋を出る。きっと言われたようにニンニクで熱を出し、流行りの風邪にかかったからと外出許可の延長を願い出るのだろう。一緒に過ごすことになる恋人も、愛があれば多少の匂いは我慢してくれるはずだ。ドン・エルシリオの《知恵》は、下町に生きる人々の暮らしのなかの問題を、ちょっとした機知を効かせ、ニンニクのような慎ましくも効果的な手段によって解決してくれるのである。

 近くの御屋敷に住む公爵が、最近購入したという自動車もまた、下町の人々の生活に降って湧いた大問題だった。相談に来たのは町内の男たちだ。彼らの言うところでは、近ごろ自動車なるものを手にした公爵は、一日に一度、外出するようになったらしい。問題なのは、車が通るたびに路地を解放しなければならないことだ。なにしろドン・エルシリオを含めて、この界隈に住むのは社会の底辺にある貧しい人々(i bassi)であって、ナポリでバッソ(basso)と呼ばれる通りに面した穴倉のような場所で暮らしている。部屋はひとつかふたつ。窓はない。家族を抱え、仕事をするには、どうしても生活の空間が路地へと広がってしまう。椅子を出してくつろぎ、食事も路地に出したテーブルでとる。そんなところに、公爵の黒塗りのオープンカーが何度もやって来るのだからたまらない。

 さすがのドン・エルシリオも考え込んでしまう。男たちのひとりが言う。「屋敷に火をつけてやろうじゃないか」。もうひとりが応える。「さすがにそれは過激すぎだろ」。またひとりが言う。「入り口に石鹸をまいて、病院送りにしてやろう」。その言葉に、エルシリオが口をひらく。「手緩いな」。驚いた男たちが聞き返す。「まさか死を求めるのですか?」。「それ以上だ」。男たちが声をそろえる。「それ以上?」。

 やや間をおいて、ドン・エルシリオの口から出た言葉が「ペルナッキョだ」である。男たちは、顔を見合わせ、怪訝そうに聞き返す。「ペルナッキョって、あのペルナッキョですか?」。

 それはふつう女性名詞でペルナッキャ(pernacchia)と呼ばれるもの。舌を突き出し唇を震わせ、大きな音で放屁のような音を立てることだ。しかし、ドン・エルシリオのいうのは男性名詞のペルナッキョ(pernacchio)なのだ。その説明を聞いてみよう。

「よいかね。ペルナッキョにもいろいろあるが、もはや本物のペルナッキョはなくなってしまった。近頃のあれは《ペルナッキャ》と呼ばれるもので下品だし、不細工だ。しかし昔ながらのペルナッキョは芸術なのだ〔…〕。そのペルナッキョには2種類ある。頭でやるものと胸でやるものだ。われわれの場合、頭と胸の両方でやらきゃならん。つまり知性と情熱を使うってことだな。なんといっても、われらが公爵に浴びせるやつには、《お前なんて人間のなかでもクズのクズのクズ野郎だ》ってな具合に響いてもらわなければならないからな。」

 そんなふうに語るとき、ドン・エルシリオ/デ・フィリッポには圧倒的な説得力がある。吹き出しそうな話なのに、しごく真面目な表情で、重々しいナポリ訛りで語るのだからたまらない。しかし、それは言葉の響きを知らないものにはうまく伝わらないかもしれない。ましてやドン・エルシリオが披露してみせる本物の《ペルナッキョ》は、どんな言葉にも翻訳不可能ながら、ナポリでは絶大な効力を発揮するのだ。

 「私がやったようにやればペルナッキョで革命だって起こせる」。そんなドン・エルシリオの言葉は、公爵が黒いオープンカーでやって来た時に現実になる。路地の住人たちからそのフルネームを呼ばれて振り返った瞬間、狭い路地にあの《ペルナッキョ》が響きわる。傲慢な顔が苦悩にゆがむのも当然だ。この侮蔑の響きに耐えられるものは、ナポリ広しといえでも、いや、世界を探しても見当たらないだろう。それはまさに革命だ。一滴の血も流さず、混乱もなく、耐えられない現実を少しだけ耐えられるものに変えてしまう。ドン・エルシリオの《ペルナッキョ》は、まるで魔法のニンニクのように、矛盾だらけの街に微かな輝きを立ち上げた。それこそは、あの「ナポリの黄金」と呼ばれるもののひとつだったのではないだろうか。

以上