このレビューはネタバレを含みます
感想を書くことを躊躇した。私は私の人生とどう向き合うべきかということ。他人をどういう存在としてみるのかいうこと。この作品に対するスタンスの選択が、それを決定づけてしまいそうだと思ったから。しかも、その選択は不可逆なものになりそうだから。それが怖くて感想を書くことを躊躇した。
姉の通院後、弟が姉とコミュニケーションを取るシーン。姉は、弟の顔を見ないまま、音声だけで、会話を成立させていた。それを見て、私は「通じてしまった」と思った。
父親と姉と弟と3人で公園の花火を見に行ったシーン。姉は、弟からインスタントカメラの使い方について注意を受けながら、音声による指摘だけでフラッシュの使い方を修正していた。私はまた、「通じてしまった」と思った。
音声情報が意味と指向性を持ったものとして彼女に通じてしまうことが、むしろ恐ろしかった。この恐怖を、認知的不協和のような枠組みで回収してはいけないような気がした。
姉が、キッチンでなべを洗い、残った料理を皿に移してラップをかけて冷蔵庫にしまい、おたまとフライパンを洗って片付けていた。濡れたスプーンを拭かずにしまうのか、とか、水出しっぱなしじゃないか、とか思いつつも、「そもそもこの一連の動作が可能になっていること自体がすごいのだからいいじゃないか」という意見も同時に持っていた。こう考える自分をみて、私は、彼女を人として見ていなかったのではないかと思った。だとしたら、通院するまでの間スクリーンに映っていた姉を、私はなんだと思って見ていたのだろうか。
私はおそらくあの映画を「ケア」の映画として観ていた。
そして、以上の感想から、「ケア」という言葉には、ケアする側とされる側の非対称性-少なくとも「人」と「人のような何か」という関係性が想定されているのではないか-が前提されているのだろうと思った。
こういうことについて考えている人はきっといると思うので、本を読んでみようと思う。
映画を通して、「パパ・ママ」という呼称が、とても浮いたものに感じられた。
@aicandoit00 せっかくいただいたコメントを誤操作で消してしまいました。すみません。 「パパ・ママ」の呼称の浮遊感について。 私見ですが、統合失調症/医師国家試験/研究者/そもそも四角い家etc と、あの家族を表現する要素の多くが角ばった/かしこまったものだったと思います。 そのような印象のなかで、「パパ・ママ」という、それ自体ポップで緊張感のない音/意味が発されたこと、そして前述した家族の印象との乖離から、浮遊感を覚えたのだと思います。 コメント削除の件、重ねて失礼しました。