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Un americano in vacanza(原題)
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『Un americano in vacanza(原題)』に投稿された感想・評価

YT. 26-17.イタリア語版。字幕なし。画質は悪くない。音楽はこれもまたニーノ・ロータ。

ヴァレンティーナ・コルテーゼの小学校の先生(マエストリーナ)ぶりが最高。凛として厳しそう。純粋でまっすぐで礼儀正しい。お堅い風情だけど、実は情熱的で夢見る乙女を秘めている。

空爆で屋根のなくなった教会、そして学校。ロケの場所はフラスカーティだが、ここは1943年の空爆で実際に瓦礫誰けになった場所。この1946年の映画は、まだまだ復興途上のフラスカーティで撮影している。時代設定は1944年6月4日のローマ解放のあと。北部ではまだ戦闘が続いているなか、ふたりのアメリカ兵が一週間の休暇をもらってローマに向かう途中で、フラスカーティに立ち寄る。

そこで屋根のない教会、ワインとリキュールという看板だけの居酒屋(中は破壊されていて井戸で水が飲めるだけ)、そして屋根のない学校。そこで、一人の女性が踊るような仕草をしている。ふたりのアメリカ兵が、近づいてゆくとそれがヴァレンティーナ・コルテーゼの女教師(マエストリーナ)。

子どもたちの笑顔、屋根のない学校、戦後すぐの風景はセットではない。俳優でもない。リアルな場所に、リアルな子どもたち。娯楽映画でありコメディかもしれないが、それでも映画は映像の日記なのだ。そこには、そんな時代があり、そんな世界があったのだ。

記憶のに残るのはパオロ・ストッパの演じる馬車の御者アウグストの滑稽ぶり。コロシアムに二人のアメリア人を案内すると「かつては人間(クリスティアーニ)をライオンが食べるところが見られたんだ。でも、いまはそんなことはない。同じことをしたら、腹を減らした人間がライオンを食べちまうからな」なんて、ローマ弁でまくしたて、「Ah, cammina giraso' 」(おい、あるけ、ヒマワリ)という呼びかけが繰り返される。この繰り返しがよい。来るぞ来るぞと思ったら来る。

馬の名前が Girasole なんだろな。ローマ方言では「giraso'」とお尻を省略して発音するのだけど、その響きがなんとも嬉しくなってしまう。ヒマワリとは向日葵の文字通り太陽の周りを回る(gira-sole)。ヒマワリという名の馬もまた、ローマの日差しの中で名所を回るわけだ。

繰り返しはパオロ・ストッパの掛け声だけではない。ヴァレンティーナ・コルテーゼのマリアの約束とすっぽかしもそうだ。可哀想な米兵のディックは、いつも約束をすっぽかされる。何度すっぽかされても、運命が二人を結びつける。

村からローマまで送ってもらうことになったコルテーゼ。しつこい米兵をまくために最初は嘘の約束するのだが、サン・ピエトロ大聖堂で再会。つきまとうディックを振り払って、故郷の復興を懇願するために紹介された枢機卿を訪ねる。アウグストの馬車であとつけたディックは、彼女がなかなか外に出てこない痺れを切らしたディックは、枢機卿宅に押しかける。

 ディックはそこが立派な枢機卿の邸宅だと知って戸惑うが、とっさにアメリカ兵の立場を利用して教皇に会いたいと嘘をつくと、なんとその願いがかなうことになる。マリアも一緒に、法王への新郎新婦の集団謁見式(udienza)に参列できることになるのだ。集団で新郎新婦に祝福があたえられるシーン、そしてふたりがクーポラに登るあたりを見ると、ああ、これってフェリーニの『白い酋長』(1952)でも観たシーンだと思う。そういう時代だったんだよなと感慨も深まるわけだ。

そのクープラで印象的なのがふたりの会話。ドームの内側の円形の通路の向こうとこちらで、天井のドームの窪みを通して話が通じるというシーン。ディックが言う。ローマに来て見つけた素晴らしいものは、二つの青い瞳と魅力的な唇だ(Due occhi azzurri e una bocca incantebole. )。でも瞳と唇は食い違いばかり。瞳は約束するのだけど、唇は拒絶するんだ(Gli occhi promettono ma la bocca rifiuta)。するとマリアが答える。わたしの瞳は何も約束していないわ。

こうして別れたはずのふたりだが、競馬場で再会する。彼女は同郷のロベルト(アンドレア・チェッキ)に、村の有力者で彼の父親から託された手紙を届けに来たのだ。そして、できれば気落ちしている父親のもとに帰って欲しいと。ところが、ロベルトは恋人のエレナ(エッリ・パルヴォ)にぞっこんで、賭け事にかまける暮らしをしている。そのエレナを、ディックの同僚トム(アドルフォ・チェーリ)が連れ出してしまう。

その間、ディックとマリアは仲直りをして、午後の約束をキャンセルして食事をしようということにっていたのだが、キャンセルの電話をかけにいったところで、ロベルトに捕まって、強引にエレナを探しにゆかされてしまう。今度もまた、ディックとの約束をすっぽかしてしまうことになったわけだ。

それでもアメリカ兵のクラブで再開したマリアとディックは、そのまま意気投合して米兵将校のダンスパーティに向かう。ディックはマリアのことを幼馴染の従姉妹だと偽り、素晴らしいドレスを借りると、夢のような一夜を過ごして、また会う約束をする。けれども、その約束も守られることがない。マリアが急遽故郷に帰らなければならなくなったからだ。

すべてが終わったかと思ったところで、冒頭の青空教室のシーンとなる。そこでマリアが黒板に書くのが、イタリアの米軍司令官クラーク将軍からの言葉。

«Noi non chiederemo all'Italia che un piccolo pezzo di terra, quello necessario per seppellire i nostri morti».
(われわれがイタリアに求めるのはほんの一握り土地だけだ。我々の死者を葬るために必要なだけでかまわない)

しかし、最後の morti を黒板に書く直前、ディックが現れる。休暇が終わって前線に戻るというのだ。彼はマリアに日記を託す。母のいる故郷を離れるところから、ふたりの出会いまでが書かれているという。もし戻らなかったら、母に届けてほしいというと、書き忘れていたと日記の最後にひとこと記す。Arrivederci (さようなら/また会いましょう)。

そして立ち去るディック。マリアは黒板に続きを書こうとするが、morti (死者)という単語を最後まで書けず、生徒たちを残して天井のない瓦礫の教室の窓のもとへ走ると、そこからディックを乗せたジープが走り去ってゆくのを見送るのだ。

ぼくは感動した。ザンパという監督はもっと評価されてよい。笑いがあり、涙があり、なによりも心温まるものがあり、高ぶったところがない。その庶民性と娯楽性、そして時代をそのままに映し出す目がすばらしい。こういう優しい心温まる映画をザンパは撮るのだ。

というよりも、ピエトロ・ジェルミが喜劇をやるよりもっと前に、デ・シーカがとんがったリアリズム映画を撮っているさなか、戦後という時代の闇を見つめ、自己批判をいとわずに、なおも節度正しく笑う( Ridere civilmente )という、イタリア式喜劇の端緒がここに開かれた。

ここから『平和に生きる』(1947)、『婦人代議士アンジェリーナ』(1947)、そして『困難な時代』(1948)のような傑作が生まれることになる。

YTで鑑賞、:
https://www.youtube.com/watch?v=tKGqja5fY1E&t=1394s
休暇中のアメリカ人

ok.ru/video/4963562162866
youtube.com/watch?v=tKGqja5fY1E