Jeffrey

百年の夢のJeffreyのレビュー・感想・評価

百年の夢(1972年製作の映画)
5.0
「百年の夢」

〜最初に一言、今年見た旧作で一位、二位を争うほどの大傑作。16年間共産党により封印されてきたチェコスロバキアの詩的で叙情性を兼ね備えたドキュメンタリー映画であり、モノクローム、映像と静止画で織りなされる荒地の貧村の老人、老女にカメラを向けた圧倒的な珠玉。たかが71分の映画の中に森羅万象を詰め込んだ静謐に胸打つ名画である。これが未だにVHSしかないのに私は愕然とする。正に本作はもう一つの"山"映画であり、哲学的世界を作り上げたハナーク監督の代表作だ〜

冒頭、ここはまるで別世界。スロバキアの山々に囲まれた寒村。様々な老いた人々が生活する集落。墓場の朽ち果てた十字架、黄ばんだ家族写真、欠けた食器、宇宙学を学ぶ老人、水の音、森の風、羊飼い、孤独な生活、聖書。今、山脈を目前にして日常生活が写し出される…本作はドゥシャン・ハナックが監督した1972年のチェコ映画で、カルパチア出脈に暮らす老人たちの日常生活とインタヴューを通して描いたドキュメンタリー映画で、72年に完成してたが、当時のチェコスロヴァキア当局により16年間輸出禁止になっていた幻の作品で、この度VHSを購入して初鑑賞したが傑作。88年ニヨン国際映画祭グランプリ受賞していて、ソフト化されてないのが残念極まる。日本ではパンドラ配給で1989年に「老人の世界」の邦題で、山形国際ドキュメンタリー映画祭の招待作品として上映されたが、VHSは「百年の夢」となってる。

ポーランドとチェコスロバキアの故郷からウクライナを経てルーマニアに至るカルパチア山脈。その東側のスロバキア共和国のファトラ山地で暮らす老人たちを、日常生活とインタビューを通して、丹念に描いたこの作品は、生と死についての黙想とでも言うような哲学的世界を作り上げていて、老人たちは、この痩せた土地で厳しい自然条件と、そして孤独と戦いながら、農業や羊飼いを生業にして暮らしている。ある老人は人間喜劇と名付けた、からくり人形作りに熱中している。それは驚くばかりの精緻さで動く。また、100年生きてきたと語る羊飼いは、第一次世界大戦の従軍で、各地を巡り、ドイツ語、フランス語、ロシア語をはじめ、いろいろな言葉ができると言っている。事故で歩くことができず、膝を使って25年間生活してきた老人も登場したり、彼はついに自力で2階建ての家を建ててしまう。

一生子供のために生きてきた老女は、ずっと村の一員とは認められてこなかったが、死ぬ間際になりようやく村に受け入れられた。また、占星術の好きな羊飼いは、宇宙へ飛び立つ日を夢見て、孤独な生活の中で、そのことを語り続ける。雌鶏と一緒に暮らし、めんどりに聖書を語って聞かせる老人もいたり、彼は街に卵を売りに行くが潰されてしまった。インタビュアーである監督の求めるままに、彼らは愛や家族や夢、労働や人生の意味について語ってくれるのだが、その皺だらけの、いわばしわくちゃの老人たちが、少しも同情を誘うとはせず、実に孤高であって、そこには時間を超越したかのような雰囲気さえ漂っている。16年を経て、少しも色あせてないどころか、いっそうの光を放つ。彼らに潜んでいる自由さを、この映画は見事に映し出していたと評価されており、それはどんな権力者でも抑えることができない質のものだろう。おそらくそれが故にこの映画は禁止されたのではないだろうか…とされているようだ。

そもそもこのハナークと言う監督の作品は、これしか見たことがないのだが、彼の長編映画の「322」を見てみたい。それはコックを主人公にした幸せを求める6人が登場する作品で、69年の第19回マンハイム国際映画祭でグランプリを受賞しているようだ。後にスロバキアの村に住むジプシー社会とその生活をユーモアたっぷりに描いた作品もあるようで、日本ではなかなか見ることができないのが非常に残念である。そして80年代にも作品をとっていて、郵便列車で働く独身男性を描いたドラマで、こちらは8年後に劇場公開され、第39回ベルリン国際映画祭で最優秀監督賞(今で言う銀熊賞)を受賞している。この作品は伝統的なライフスタイルを見ることができ、VHSのパッケージに出ている老女の黒い服を身にまとうのは、親近者の死に際して半年とか1年とか、喪に服すからで、そういったありふれた日常生活が古びた楽器の民謡の奏でる中、決して家族がいるわけではなく、それでも1人で生きて行かなくてはならない生活を貧しく苦しいものに捉えつつ、それでも彼らの少しばかりの生活に対しての明るさが垣間見れる。

本作は冒頭に、日本語字幕でこう説明される。これは1人取り残された人々の話である。この人々は生まれた土地に根を下ろした。彼らをよそに移す事は、すなわち死を意味する。そしてファースト、クレジットとタイトルが写し出される。木で出来た粗末な家、納屋、石積の壁、壊れた金網にぶら下がった半長靴など、寒村の貧しい暮らしを伝える写真をバックにタイトル。ここはスロバキアの一面の畑。そこに老女の歌声が流れる。歌はこう言っている。少女は川に水を汲みに行った。新録の庭を通り抜けていった。そして金色の糸を見つけると、花輪を編み始めた。娘の所へ若者が来て尋ねた。何のために花輪を編むの?カメラは老女の生活をとらえた写真にモノローグが重なるのを捉える。粗末な丸太小屋、爪先の割れた靴下から覗く節くれだった足、納屋の羊、茶碗を持っている手、納屋の前に座る姿、曲がった腰で囲いを超える姿など、様々な写真と動面が貧しく過酷なこの村の生活の断片を伝える。

私の家はこの納屋だ。もう50年も。1914年に3人目の娘が生まれ、私は結核に。その時、私は30で夫は戦死していた。医者は新鮮な空気と山羊の乳を始めた。子供たちを寝かしつけると納屋に戻った。夏も冬も。日に3度も乳を飲み、電灯もストーブもない。温かいミルクと新鮮な空気だけ。自分で畑を耕し、馬を馴らしながら血を吐いたが、子供には感染させなかった。こうして死と戦った。老婆が畑にめぐらした囲いを超える写真が挟み込まれ、ひどい囲いだ。この囲いを越えて外へと発言する。野原の向こうへ去る老婆の写真。葬儀の風景に老婆の歌が重なる…と簡単に冒頭のシーンを説明するとこんな感じで、1つの村の老人たちをインタビュー形式で捉え、スチールショットと動画を混ぜながら我々に見せつけるモノクロームの世界観が圧倒的な作品である。


いゃ〜、頗る傑作だった。冒頭の得体の知れない水の音のような不気味な音色とともに物静かにモノクロームの映像が映し出されていく。そしてスタッフロールが下から上へとスライドされる。動画と静止画を交互に展開させていく。この作品出てくる人々はスロバキアの人里離れた山の中で、ヨーロッパ中部の文明の周辺地域で暮らしている。監督は彼らの下に通って、その話に耳を傾けたそうだ。彼らは皆その内部に未知の宇宙を持っているようで、彼らは皆その内部に、内なる光のようなものを持っていると監督は言っている。貧しい暮らしをしている人々だが、誰もが人生を見事に生き抜いて、その秘密を知っている。人生で1番大切な事は何なのか、この映画は全体主義体制のもとで長い間禁止されていて、後になって上映された作品だが素晴らしい映像世界だ。

この映画は話が続くわけではなく、1つの画面が切り替わったら、全く以て別の人物の内容へと切り替わるスタイルであるため少しばかり混乱するが、はっきりと区別されてないのがまたこの映画の味なんだろう。次なる人物の話と言うふうに、何気なく画面が切り替わるのだ。出てくる人物が老人老女ばかりで老いイメージが我々の頭に入り込むのだが、失礼な言い方をすると、すでに片足棺桶に入れている状態の老人たちが、シワだらけの表情でカメラに向かって懸命に言葉を発したり、その笑顔を見せて抜けた歯が印象的で、髪の毛も薄くなっており、スロバキアの風土と言う荒地での原始的なー場面に遭遇してすごく圧倒され、生きると言うのはこういうものなのだろうかと思わされた。死への進行時間が流れている映像の中には、平安を祈る老人たちの切なさ、いや切ないと言うのでは無いな…なんていうんだろう、残りわずかな時間の中で静かに生きていく心豊かな日々が見て取れた。

水の流れから、水車の歯車、水の動力、木彫りの人形などを印象的なものは出てきて、モノクロームに映る暗い空と大地の広がりがなんとも別の宇宙を見るかのようであった。やはり冒頭の下りのスロバキアの民謡と言う言葉の意味はさっぱりわからないのだが、山国のスロバキアと言う国から察するように、近代化のプロセスが遅れた分だけ、伝統的な民謡文化が損なわれていない形に残っていると言われているように、この山脈地帯の映像とともに素朴な歌詞とメロディーが耳に残る。どうやら昔からこの国での民謡は、民謡の宝庫として知られているようだ。日本人の私にとっては全然わからないことだが、どうやらこの作品の登場人物の老人たちの使う方言は、中部スロバキア方言と呼ばれているもので、標準スロバキア語を知っていれば分かりにくいわけでは無いそうだ。ちなみに標準語を使うのはインタビュアーの青年である。いくつかの発音上の特徴、例えば語末Lが、Uと発音されたりしている。標準スロバキア語そのものが19世紀半ばに、主に中部スロバキア方言に基づいて制定されているそうだ。標準スロバキア語が民衆の話し言葉に近く、文法が他のスラブ諸国に比べて簡潔であると言われるのも、このためだそうだ。


ところでこの作品が72年の映画であり一般公開されたのが88年で、長年お蔵入りされていた理由の1つが政治的メッセージとされているが、正直この作品に政治的なメッセージなんて皆無である。一体全体何をどう見たら政治的に検閲に引っかかるのだろうか、気でも狂ったのかと言いたくなるほどだ。もし国的に嫌な事柄があるとしたら、農民たちの貧しさが赤裸々に描かれていると言う、国家のイメージを悪くする位である。しかしこの時代は貧しい国などあちこちにあったし、その国だけの特色ではないだろう。ペレストロイカや1989年の東欧の国々の変革をきっかけに、作られた劇映画やドキュメンタリー映画には社会主義体制の生み出した矛盾や問題点をセンセーショナルに暴露するといった傾向のものが目立っていたが、それらは一過性の問題作であったと言われている様に、そこまで厳しくする必要性は無い。

本当にこのような社会主義のおかしな国はうんざりである。皆もご存知の通り、社会主義とは、生産も富の分配も国で管理する方式をとった国柄であり、日本の周りはそればかりだ。あえて名前は言わないが、生産を国家管理した結果が生産力の減退を招き起こして経済破綻をきたしたのは承知の通りなのに、それらを改善しようとしない国々があまりにもまだ残っている。そもそも社会保障システムが生きているのかどうかすら私にはよくわからないが、少なからずこのスロバキアの山脈にいる老人たちに介護ヘルパーが訪れる気配は微塵もなかった。1970年頃と言えば、鉄のカーテン西側のヨーロッパ資本主義諸国では、公的な責任による社会サービスが一挙に花開いた時代で、社会サービスの本家本元のはずの東側先進工業国がこの映画のような感じだったらうんざりだろう。

しかし、正常化体制と呼ばれる1969年から89年までの社会主義体制かのスロバキアでは、実際にそうした想像力の持ち主が映画部門の責任者の椅子に座っていたのではないかと調べてみたら案の定そうだった。89年位に社会主義体制が崩壊した後で明らかにされたところでは、正常化体制時代にブラックリストに挙げられたスロバキア映画は全部で31本、そのうち11本は1988年まで完全に上映が禁止されていたそうだ。その中には本作のほかに、監督のもう1本の作品も含まれていた。しかも不可解なことに、上映禁止措置が取られる際の明確な基準があったわけでも、また公式に上映禁止が通告されたわけでもく、責任者の一存によって密かにブラックリストに乗せられて、フィルムが差し押さえられたと言うことになる。

監督の2本の作品が上映できなかったのも、イデオロギー上の理由によると言うより、彼がこの責任者に個人的ににらまれていたためであったと伝えられているそうだ。正常化体制時代のスロバキア映画(映画だけに限らないが)は、不条理の世界の中に置かれていた事がこの映画1本を通してでも伝わってくる。そういえば、劇中に出てくる自称100歳の羊飼いの老人が、フランス語や英語、イタリア語、さらにはジプシーの言葉らしきものまで話せると言っていたが、やはり時代が時代なだけにあって、第一次世界大戦とかに行っていたのだろうか?そもそもスロバキア語の軍隊スラングで、ドイツ語の鈍った形が元の由来であるスラングまでこの映画には飛びかってた。こういった老人だらけの映画は、どこかしら死者へのノスタルジーを感じさせてスチールショットが生き生きとしたモンタージュ効果によって、映画が完成されていくので非常に良い。

これは昔チェコ映画特集の際に話したことだが、改めてチェコとスロバキアの関係について少し話したいと思う。チェコスロバキアの正式名称は、チェコ及びスロバキア連邦共和国であり、すなわち、東西に長い西側のチェコ共和国と東側のスロバキア共和国の2つの共和国で構成されている国家のことを示す。1918年に設立したチェコスロバキア共和国は、1938年ナチスドイツの支配下に置かれた時代を経て、第二次世界大戦の1948年から1989年までの約40年間、共産党が政権を掌握していた。68年8月のワルシャワ条約機構軍の戦車によって、プラハの春から21年を経た89年のビロード革命により、社会主義政権が倒れ、チェコスロバキアは、長い冬の時代に終止符を打った。68年当時、共産党第一書記を追われたドプチェク(スロバキア出身)は復権し、同年12月、連邦会議長に、民主化要求運動(市民フォーラム)のメンバーの1人で20年の間、獄中生活を送った劇作家ヴァーツラフ・ハヴェル(チェコ出身)は、大統領に就任した。

盟主ソ連からの自由を手にしたものの、時を経るうちに、新国家のあり方をめぐって、チェコとスロバキアの2つの共和国の主張が食い違い、亀裂を見せ始めている。チェコとスロバキア、それぞれの民族の歴史は別々のものであったため(スロバキアは長年ハンガリーの支配下にあったが、チェコは近年ハプスブルグ家の支配に置かれたとは言え、中世、文化的にも産業的にも非常に発展した国であった)、その設立時から、スロバキア人の中にはチェコスロバキアのー部とされることへの不満はあった。それがここにきて一気に吹き出しているのが、この映画が作られた時代であり、この映画が日本で公開された時代までの過程である。 私はいつもこのような歴史物、ドキュメンタリー映画、地政学的な作品を見るたびに、まず地図を見ることにしている。そうすると色々とわかるし、長年ポーランド、チェコの事は色々と書籍を読んで分かっているつもりであるため、このような作品は非常に自分にとっては有意義に楽しめるカテゴリーである。

そもそも10世紀にマジャール民族(ハンガリー人)がハンガリー盆地に住み着いて以来、絶えずスラヴ族のスロバキア人たちは北側の山がちな地域に押しやられてきた歴史があるため、こーゆー山がちの地形は、スロバキアの東西を分断し、各地域の差異をも生み出して、スロバキア民族にとってこれらの山々が、民族のアイデンティティーを象徴するなじみぶかいものなのではないだろうか。そういった面では学習院大学大学院在学中の矢田部順次氏が言うように、スロバキア人は、山と共に生きてきたと言うこともできるのかもしれない。現在のスロバキアの国章に、3つの山(タトラ、ファトラ、さらに今は領土外にあるマトラ山地)が図案化されているのもこうした理由によるものだと言われている。
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