シュンティ

星を追う子どものシュンティのネタバレレビュー・内容・結末

星を追う子ども(2011年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

長らく、僕はこの映画が好きではなかった。

新海誠が「秒速5センチメートル」で名が知られるようになり、僕もそれで新海誠を知った。

美麗、という言葉が陳腐なほどに幻想的な現実を描くその作品が、とても好きだ。

だから、その次の作品である本作に、とても期待していた。
公開日に合わせ、仕事を早く切り上げて池袋の映画館まで足を運んだ。確か雨だったはず。

僕はこの映画に「秒速5センチメートル」のような叙情性を持った作品であることを託していた。きっとそうであってほしい、と。

ただ、現実は違った。

まるでジブリ作品であるようなキャラクターデザイン、世界観。そういう映画がダメだ、というわけではなく、ただ「秒速5センチメートル」のような世界観ではなかった、というだけだ。

世間に迎合したのか?
もはや作家性は失われてしまったのか?

映画を見終わった後、いや途中でさえもそんな疑問が浮かんできた。

もう、新海誠は僕が追うべき作家ではなくなってしまった。そう思った。

それは後々、「言の葉の庭」という「デジタル時代の文学作品」と評された映画によって覆ることになるのだが、本作の評価が変わることはなかった。

そして、時を経ること10年。その間一度も見ることはなかったが、今回、新海誠作品を振り返りたく本作を鑑賞した。

新海誠作品の中で、本作の立ち位置は微妙なものだ。
作家性に振り切るわけでもなく、かといって「君の名は。」や「天気の子」のように娯楽作として(売れる作品として、と言った方がいいかもしれない)提供するわけでもない。

だが、本作が深海作品の中で「過渡期」のものであった、ということは、ほぼ間違いない。

本作を作り、結果が出た上で何が足りなかったのか、どうすればよかったのかが見えたはずだ。

それを書いた上で、本作の内容に触れたい。

本作のテーマは「喪失」である。これは深海作品に共通しているテーマでもある。
大事な人を失った森崎とアスナが、死者をも蘇らせる事ができる世界、アガルタに旅立つ。喪失を抱えている者同士、共通の目的を持って旅立つ。

終盤、森崎は愛する妻であるリサを蘇らせるため、生死の門をくぐり、アガルタの神に祈る。

「リサを蘇らせてくれ!」

その願いには代償があった。魂を入れる器が必要。そこに現れるアスナ。森崎の意思とは反し、リサの魂はアスナに入る。

そして現れるリサ。愛する者との、10年ぶりの邂逅。
だがシンは、「生きている者が大事だ!」とそれに抗う。

この描き方にハッとした。

大切な者を亡くした人は、蘇ってほしいと願う。それはごく自然なことだ。
ただ、それが現実のものとなる時に、生きている者が代償となることは、正しいことなのか?

森崎が抱えている喪失の深さは分からないが、過酷な旅を経てまで蘇らせたいと行動するのだから、本物には違いないだろう。

ただ。人は必ず死ぬものだということをリサに教えてもらった事を忘れていた、というよりはそれよりリサに会いたいという気持ちが勝っていた、と言った方がいいだろうか、とにかく、人は死を受け入れて生きていかねばいけない生き物だ、という事を、森崎は一連の旅で教えられたのではないか。

それはアスナもそうで、父を亡くし、シュンを亡くし、その喪失を「ここではないどこかへ行きたい」という感情に紛れ込ませていた。

森崎の行動を見て、アスナも感じたはずだ。人は何があっても生き続けなければいけないことを。

だからラストシーンが母親に対する「いってきます」なのだ。これからも生活を続けていく。生き続けていく。その決意の現れ。

久しぶりに見返し、新たな発見、いや見落としを認識することができた。映画は一度見ただけでは分からない事が結構ある。どんなに感動する映画でも、見落としはたぶんあって、より感動できるポイントがある。

そんな事を改めて教えてくれる映画だった。