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町の政治 -べんきょうするお母さん-のニューランドのレビュー・感想・評価

3.4
 ✔️🔸【時枝初期】『町の政治 べんきょうするお母さん』(3.4)『This is TOKYO』(3.2)『新しいガス源をもとめて』(3.5)🔸【時枝の文京区】『文教の歩みをたずねてー文京の文化財』(3.0)『建造物との対話』(3.0)『ぶんきょうゆかりの文人たちー観潮楼をめぐって』(4.1)🔸【時枝と伝統文化】『越後上布』(3.2)『歌舞伎の魅力 舞台』(3.4)▶️▶️


 作家特集というのは有難いものだ。最初から嵌まらなくても、いつしか引き込まれることもある。この作家は最初から一貫したものに惹かれた。ローアングルからのシャープこの上ない図、空撮や俯瞰図の退きが挟まる、横への限りないような次々対象を追うパンや横移動、時折ズーム、抽象的間(空撮)縦移動も、望遠での顔ら押さえ列ね、スチル構成の連ねも、音楽の抽象的強調力、内容やナレーションの一ヶ所に留まらぬあちこち訪ねと進行力、一ヵ所で停滞するよりは堂々巡りに見えてもクールに正確に前へ、どんでん・寄り・90°変・切返しの選択の確かさと繋ぎの密とキレ。淀みと誠実さと、割りきる姿勢の選択や或いは固持にかけがえのない才を感じる。度々引合に出してどうかと思うが、現在映画作家最高峰と言われるC・ノーランを確実に作家力が上回り、構築力やビジュアルでレネも想起させる。
 主婦と学生が主となり、立川からの流れをシャットアウトすべく、議会等に働きかけ、文化都市へ向かい出した町田。そこから生まれた火曜会、踏切を渡らないところに校舎移したり、議員を送り出し、勉強会か始まる。主婦らが中心になり、町の予算、会議費に偏重し、教育費の少なさ、それも国などが行うべき営繕費が主、貧困家庭の補助も国や市でなくPTAから。家庭も最初冷ややかも、家事もこなす働き・行動ぶりから、賛助も得てく。町全体の活力、講座もふえてく。
 この作も題材を越えて図の力、力の溜り場、動き出す一体感や自然なはつらつさが素晴らしいが、カラーの次2作は、まだ伸び代・活力があったころの、人の数と密度、延びてゆく可能性の設備の整然並べ方、図とカメラワークの果てなくも清潔さ、がより圧巻。
 首都東京の密度と巨大さと新旧併存奇妙、全ての渾然一体を描き、レネやマルケルの知的表現に迫ったかのような、『~TOKYO』は、様々な図が、何かに向かう意思と断片化された独立統合性に貫かれ、とにかく見ものだ。人の群れの多大さとその動きの忙しなさ、巨大なビル群と、工場の工員の整然埋め尽くし、ニューファッションの最先端がリード、一方人影少なく自然が覆う静かな空間も、旧体制と繋がる明治神宮から、伝統芸能や工具の職人場まで。英米向け英語版ななので、問題提起的なところは聞き取れず、紹介映画に留まってるようで、この作家特有の、鋭いカットカットの叩き込みと、相互批評的なバランス構成の感覚は素晴らしい。
 産業構造紹介映画ににみえて、実のところ更に焦点を絞り、入り込んでいった『~ガス源~』は、警鐘的空洞の予感へ更に向かい圧巻だ。エネルギー革命による、石炭と人力によるガス生成から、海外輸入した石油の完全オートメーションへ。また、コストや容易さから、石油生成時に発すガスを直接に、さらに石油産地のアラブで時かにガスを得て液化天然ガス化する方向へ。効率・能率アップ、企業間国家間競争の生き勝ち残り、の為の目眩く方向切変えの連続エスカレート、国内の労働人口がみるみる疎らになり、設備や現場がどんどん廃墟化し、産業の実態が空洞化してゆく。輸送機関に乗っての主観移動ショットの連ねの速度と人影消失が、表現形式としても不安をつのってゆく。序盤の力強さ・活力がいつしか変質してゆく。罠やトリックなく、明らかにストレートに。
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 現在のうごめく実態・予感に沿えば、この作家の最初に述べたスタイルは自然・縦横に際立ってゆくが、過去の遺された書物・図面や、現在に微かに残る風情や遺跡を対象にするとなると、筆致は速度を失い、ポイントをまさぐり筆先は停滞気味となるは致し方なく、しかし、現在を動かすか暖める縁は掴まえてもゆける手応えも与えてくれる。
 文京区の文化・文人の輩出・充実・空気化の歴史と風情を探る、題材の連作がそうだ。『~文化財』では、江戸末期からの昌平学や、神社仏閣の中から境内での学校的なものの、階層を越えた拡がり。広大な加賀前田家らの大名上屋敷らの払下げと大学らの建築の促進。学生らの集中と、安く暖かく迎え入れる、町の人びとの気質と、旅館下宿館の充実。文人も集まりくる。それらの日々日常の足取りは今も染み込んでる所が多い。この地で生まれ、家族を背負い、短い生涯を望みに向かい生き抜いた樋口一葉は、まさにその申し子。
 『建造物~』は、大名関連の東大赤門からその正門の、代表的かつ華々しい様式の併さってる確認から、表からの華麗さはない地味な藏造りながら、火事に強く、中には貴重な仏像らが多く欠損なく安置されてる建屋まで、様々な刻印を視覚的にも並べてゆく。近代的女子教育のスタートとなった、日女大らの古来からの施設群の光や探求心に開かれた佇まいと思想が視覚的に積まれてく。
 が、その2本は微笑ましく確かな事象の羅列・深掘りの成果に留まり、人間的な動揺の共感には、行き着いていない気もする。いつもの才気は、歩く半主観の移動にも、滲んでは来ない。
 『~観潮楼~』は、鷗外が後半生を過ごした二階の眺望や外観が個性的な、今は大石と銀杏の木が残るだけの、住居を中心に、そこから発信される文京区に散らばる文人たちとの多大なやりとり、派を超えて集う彼を慕う人々との定期セッションの印象的形を、探り甦らせてくドキュメンタリーだが、定番の語り口を外れ息づくものが、実に独創リズムを刻み始める。
 やはり定番を越えれない歴史の定着感の組合せかな、と思ってたのが思わぬ所からの息づきがメインに向かい出すを感じてくるのだ。今の薮下通りから団子坂へ、木漏れ日や樹木への角度や歩く速度を感じながらの向かう感覚再現、サラの木や花の固定アップ、辺りから、意識が先見的に現実を裂く予感ではなく、既に先に存在するものの感触が緩慢も確かな鼓動の流れを生み出しても来て、印象的な交流・心遣い・想い余ってのずっこけ、らが叙情的で無理な高揚のない音楽と穏やかなナレーション、独自積み上げ叩き込み呼吸モンタージュ、で自分との併行現実としてせりあがってくる。漱石の初出雑誌から切り抜き纏めて子に与えた鷗外自作の本。小説の向かうべきは理想か現実か、文学界初の論争相手ながら、シェークスピア翻訳に当たっては細かい助言を求め応えた坪内逍遙との関係。皆別派閥ながら集まった人びと、啄木が向かい弾む心。新進一葉を絶賛しすぐ三人会から四人への同人誌に迎えんとする、拘りない好奇と同志意識の伝わりの励まし高めさすあり方(間もなくいのちを落とす前の一葉)。集まりを纏めた本や記した各日記には絵にまとめたものや似顔絵ものくだけ具合。啓蒙の上からだけでない先輩後輩を越えた実践の眼前。独自だが全てを生む土壌。
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 そして永く続く、伝統の織物や演劇の経験から決められた厳然とした、創作の流れの、しかし、今初めてのように更新されてく軌跡を追うにも、やはり受け身となるが、どう受け止めるかとなる。このシリーズには映像化作品のスタッフ・作者さえ明記されない、指示なく自発的に行われてくことの記録の姿勢だけが、作る側としては感じられてゆく。
 『越後上布』は、閉ざされた雪国の農村の一冬を通しての、気の遠くなりそうな、精密で丁寧で数えられない段階を踏んでの、機織りに至る、銘品織物の製作過程を、農村の生活空間・生活様式・家族構成と浸食し合わせながら描いてゆく。美しき効果的にポイントを押さえた図、リズムと佇まいが伝わる丁寧な角度変、アップやパン・ズームの寄り沿い方、その静謐なタッチは極上。機織り前の、他所の地下での原料植物とその選定と削っての繊維化、それを受け入れての細い糸にして独自に繋ぎ伸ばす、乾きに弱いので定期的に水に浸す、乾かし外の雪上干し三回で白く、糊つけをしてく、セッティングする薄紙に模様を描きその通りに印つけ、縦糸と横糸にそれを正確に施す、色を施さない所は外から紐でくくり染料に浸す、書ききれない細やかさと順序と人手が受け渡されてく。出来上がる物と同等に映画が美しい。
 『歌舞伎~』。芝居と仕掛けのコラボ、マッチングの壮大で細やかで、チャレンジングなアイデアの折り込み、実践テスト。舞台上と客席からの視覚効果の確認。今のの団十郎の父の海老蔵時代の公園に向け。ワイヤー吊るされとそこでの動き模索、どんどん変移する天狗の怖い形相の築上隈取り付け、地下からの人や建造物の強引現れ方のセリの上がり下がりの力、それを囲む大布の一気落としでも隠され物の新鮮初見え、回り舞台のセット入れ替えスケール、立回りと宙吊りの絡み、人に見せての人形ちぎりバラバラ残酷。アドリブがどんどん加わる分、どっしり落ち着いて待てず、都度対応切り取ってくカメラ。精緻は無理だが、生きた活力の跳梁の押さえ豪胆さが感じられる。ラストの公演中の宙吊りの極り方でも、退いた侭の図で様々な力が図を完全に張ってく。
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