SANKOU

絞死刑のSANKOUのネタバレレビュー・内容・結末

絞死刑(1968年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

死刑制度に対する大島渚監督からの問いかけ。死刑制度に賛成だという人の大半が、実際に死刑が執行される場面に立ち会ったことがない。死刑囚の身に刻一刻と最後の時が訪れるのを生々しく描く冒頭。顔は隠されているが死刑囚の手の震えから、確実に自分に死が訪れるのだということを身を持って知ってしまった者の恐怖が伝わってくる。
もちろん刑を執行される側は恐怖でいっぱいだが、執行する方にも相当な精神的な負担がかかる。
かくして厳かに、だが壮絶な形で刑は執行された。観ていて心にずしんと重いものが響くシーンだ。
しかし、そこから物語は思いもよらない展開を見せる。
「Rの肉体は死刑を拒否した」とテロップが流れ、検察官が脈を計ると被告はまだ生きている。一向に死ぬ気配がなく、死刑は失敗に終わってしまった。
慌てる所長や教育部長たちは再度刑の執行を促すが、日本の法律では心神喪失者に刑を執行することは許されていない。ただ殺すことのみに目的があるのではなく、被告が罪を悔やんで刑を受け入れることに意味があるのだと。
かくして死刑を執行するために、被告を蘇生させるという不条理なドタバタ劇が展開する。
目を覚ますRと呼ばれる被告人だが、彼は自分が行ったことも、ここにいる理由も、自分がRということですら分かっていない。
焦点の合わない目で「お久しぶりです。ご機嫌いかがですか」と繰り返すRに、教育部長は何としても彼に罪を償わせたいが、教誨師はRの魂は既に神の元にあり、彼はRの姿をしているがもはや別人だと主張する。
しかし彼が記憶喪失のふりをしている可能性も否めない。
「RはRであることを受け入れない」
所長になんとかしろとせがまれた教育部長は、Rに記憶を取り戻してもらうために、彼がどんな事件を起こしたのかを演じて見せることにする。教育部長、所長、保安課長、検察官がそれぞれにR役や被害者の役を演じる姿は滑稽だ。Rの為に、よりリアルに臨場感を持って演じようとすればするほど、彼らは無様な姿をさらしていく。
やがて「RはRを他者として認識する」。
彼は22歳の在日朝鮮人で、18歳の時に二つの殺人事件を起こして刑務所に収監されたのだと教える教育部長。朝鮮人とは?家庭とは?劣情とは?犯すとは?一つ一つ部長が説明するたびにRは子供のような素朴な心で質問をする。
その一つ一つの質問にしどろもどろになりながら答えようとする教育部長の姿がおかしい。大の大人が演じる茶番劇に思わず笑ってしまうシーンばかりだが、やがてRはRという貧しい家庭に生まれた朝鮮人の男がいて、劣情にかられて若い女の人を殺したという事実を理解するようになる。
教育部長は自分の努力が報われた、人間の信頼とは美しいものだと喜び、早速彼に饅頭を食べさせて刑を執行しようとする。
しかし教誨師の男が「R、いやRじゃない君、君はこのまま殺されようとしているんだ。それでいいのか」とRに問うと、Rはそれは嫌だと答える。
Rという人間が罪を犯した事実は分かるが、どうしてもそれが自分であるとは思えないのだと。ただ皆がそうだと言うから、皆が演じてみせてくれたことを自分もやってみようと提案する。
「RはRであることを試みる」
Rが加わり、彼が育った家庭環境から忠実に再現しようと、教育部長筆頭に再び茶番劇が始まる。いつの間にか教誨師まで役を与えられ、すっかりはまってしまうのだから面白い。
しかし、考えてみれば彼らはRを救うために行動をしているのではなく、あくまでRを再び殺すために行動しているのだ。コメディのような展開に笑ってしまうが、実はとても恐ろしいことだ。
リアルさを追及するあまり、遂に彼らは刑務所を飛び出していき、町中でRの記憶を呼び戻させるための演技を続ける。そしてあまりにも熱中してしまったために教育部長はある女生徒の首を絞めて殺してしまう。
それが現実なのか空想なのか、最初は教育部長とRだけにしか死体は見えないから分からない。
しかし所長にもその姿が見えたことからそれが空想ではないことが分かる。死んだと思われていた女生徒だが、奇跡的に息を吹き返す。これはなかったことにしてほしいと彼女にこの場を引き取ってもらう所長。
すると今度はRの姉と名乗る女性が現れる。Rに姉はいないはずだが。
しかもRと所長や教育部長の目には映っているが、他の者には姿が見えない。
この場面で日本人の朝鮮人に対する差別の問題が語られる。やがてRは朝鮮人としての自分のアイデンティティを取り戻していく。最初は姉の姿を認識出来なかった所員たちも彼女の姿が見えるようになっていく。保安課長と検事以外は。
日本という国がRに罪を犯させた。「Rは朝鮮人として弁明された」
そして「RはRであることに到達する」
彼は自分の犯した罪を認める。しかし死刑になるべきではないと主張する。
人を殺すのが悪ならば、死刑で人を殺すのも悪だ。死刑を行うのは個人ではなく国家だ。では国家とは何か。それは個人を含めた全体だ。例えば検事が全体の中の誰かだとするなら、死刑によって人を殺せば、検事はその罪から逃れられない。
国家が死刑を強要する限りにおいて自分は無罪だとRは主張する。自分を有罪にするものがある限り。しかし、彼は「あなた方を含めたすべてのRのために」罪を引き受けて刑に処される。
大島渚監督らしく一筋縄では行かない作品で、描かれていることは明確なのだが解釈するのが難しい内容だった。
そもそも心神喪失になってしまった被告を、再度刑を執行するために悪戦苦闘して記憶を呼び戻させるという行為自体が非常に無意味である。
被告に罪を償わせたいのであれば、死刑に処すという考えも矛盾したものなのかもしれない。
人の罪とは何なのか考え出すと難しい。人を殺してはいけないというが、国家が求めるなら戦争で人を殺すのも、人を死刑にするのも合法だ。
国家が存続するための行為においては、殺人も罪には問われないわけだ。
最後Rに絞首刑が執行されるが、床が開いた先のロープに彼の姿はない。
色々ともやもやした感じの残る作品だが、強烈な印象の残る傑作だと思った。
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