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『ラストマンゴー・ビフォア・モンスーン』に投稿された感想・評価

✔️🔸️①『ラストマンゴー・ビフォア・モンスーン』(3.6)🔸️②『アフタヌーン・クラウド』(3.6)🔸️③『夏が語ること』(4.4)🔸️④『何も知らない夜』(4.4)🔸️⑤『私たちが光と想うすべて』(4.7)


 最初2本は初見を含む、カパーリヤーの長編前の短編3本。光の入り方も心打つ端正な構図のFIX長め、落ち着いた強い色調のや暗めの重みあるのや・または白い白煙や霧の包み、暖色・寒色の衣類と二世代の同性(や異性)コンビ、全景や抜き取りで自然の山や変わった幹や枝の張りかた方、時おりの流れ行く車窓、音楽・ナチュラル表す自然効果音の支配、対称形や切返し・俯瞰めの構図とその繋ぎ確かさ、半ば霊に係わる昔の話の回想、漫画風というか時に少し切り絵アニメ風の手書き奇妙図の被せや挿入、時に真俯瞰やロー図での対象存在、初期短編のスタイル厳守か冷たい伸びやかさは、3作目に衝撃を受けた時からある程度予測は出来たが、3作目の選択や組合せの絞り込み前の、1、2作目を見せられると、この神秘的尊敬対象のベース確認・試行段階が目に入り、必ずしも自信に裏打ちされてないのが、今一つ弱い。
 ①は、森林内フォローや、その探るカメラ設置で、うつる霊的異人間男女の転生論議、森内霧や白煙発生に男2人コンビは別行動。終盤は、都市に移り母娘の夢の話や、道路やアパート建物・或いは室内を部分囲った明るい色光部分が異質に張り付く。車窓や森内、漫画的図の収束イメージ多入れ、らがメイン部に並行し、前半と後半で呼応はしても、場と人物らが切り替わる。
 その点、②は切返しや場所移り、対照位置の窓ら配置から一点2人の二世代女の見つめるもの。2人が遭遇、というか若い女中的女は実際に逢い、老女主人は記憶内に、若いまんまの船事故で亡くなった夫。アフリカの旅や離船や、船への誘いの話。列車室もある間取りと花瓶ら・白煙と、3人出入りの絡み、のシンプル・ストレートな造り込み。
 ③は、表現の微力を静かに重ねる事でこれまでにない力をものせんとしたのか。基本的にドキュメンタリーでもあり、会話の声がいくつものパターンか現れるが、人は端に固まってるか・手前を横切るか、アップ表情などもなく、退いた図のサイズで主張なく、存在はしてるのに。寧ろ家畜や家具寝具・電化製品・蜂の巣らが前ふりなく、画面奥や真ん中に現れたりする。それよりも木々葉々を揺らす風、村の真ん中辺に流れ立ち込めてく白煙か白霧の大きさがじっくり凄い。小さな月・森の緑や木々を部分浮き上がらす柔光、家の奥に存在鎮座してる小さい電光源ら。家の位置関係・寄りの突出部らについて慎ましいデクパージュらしきにも至る。車窓動き流れに会話被りも。描き図被せもあるが、切り絵で切り離し動きのが、量は少なめ。
 TVらからの音楽や、解説的offの会話・空間内住民の会話らが、神話的・または何気ない日常や深い奥存在の様に、中身があるのかないのか敢えて決めつけない、語るメイン者いない内容。~山や自然にではなく村の入口・中にこそ神はここでは存在、寝起きの確認と落ち着かなさ、村への猛獣に対する認識操作、父子や亡き夫の愛を語る妻、ラブレターの追い、蜜蜂らの確保ら。
 たまに電源の赤みや衣類赤のはじに、らはあるが色彩はとことん削いで、端からモノクロパートらへも移行するくらいの、モノめ主体で静か存在感が続く。
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 後は、一般公開済みとなってお馴染みともいえる、長編2本。この作家の長編一作目④『何も~』は、貧しいバジェットで、斬新野心やプロジェクト大がかりといったものにも基づかない。大量の学生らが撮ったフィルムのストック発見の譲り受けが、時代と国の反動化と、元よりクリエイトで保守には向き合い対立する出身大学ベースの、摩擦による作り手の自然で巨大な発火力へ。その作品化ということか。通じてく、架空の女子学生の戦線離れた嘗ての恋人への手紙の発見、その並べというひとつの縦糸のロマンを創作し、自らやはりやや発見の劣化フィルムに比べると画質よさそうな日常様式再現フィルムも加え、元より感性豊かな者の運動盛上りへの同化・煽動的姿勢が、より集めにしてはホットで、元よりは違うも自然似てきた、前衛ばり作の、構築というより劣化しない現存侭の状態の作となってる。
 確かに『何も~』は、ちゃんとした計画・思想に基づく戦闘的・先鋭的作と呼ぶには弱い。必ずしも闘いの第一線にいたかは疑わしい作者、しかし、そこは感性の作家。何に脅かされ、何に向かってたか、何を一義に護り、どこに魂を置いていたか、どこに食い違いが生まれ拡大していったか、論議の前に感じとり吸い取ったものは今や定着し、美しい詩となり、また、あらゆる網を巡らしての心の記憶となっている。創作というか、全ての下地に感じとり出来上がった「L」なる、闘士の若い女性の、田舎に戻った際に、家族親族に軟禁され、二度と出てこれなくなった風の恋人「あなた」に宛てた手紙の、残された物の読みこみが縦糸となり、それは出されるつもりのないものとして、置かれ続けた、最早逃げ出さないあなたは同志ではなく意味もない。ゴトク・タルコフスキー・ゴダール・小津・パゾリーニらの、連帯の言葉・作品の穏やか音楽・弾圧側警察に与した過去事実らは、飾りよりも作品内部をリアルに生きる。ストの学生の富裕層・エリート基盤からの出よりも、制服1枚取れば、より近しい貧民・被抑圧層の(女性)の(パゾリーニが取る姿勢や)関係は、あなたと違わない。
 「(互いの)暴力、自由、民主主義」、は、新首相1年で強まる、芸術や映画創作大学を取り分け目立つ標的型とする、「ヒンズー至上、富裕層、カースト制」の反動的強まり・全面化は、「学生・労働者、他大学連帯(先鋭単科から代表的力大へ)の・団結、デモ参加、次々逮捕、勾留中語ると他の怯えになる口開き抑え」を止められなくしてく。
 寮内の、家具や窓、外景と中の壁とその書き込み、鏡や室内干し物回収、安易な着衣らは、画面の中心周りは暗めの劣化めとしてるが、他にもあるが、本作の為に擬似日常として撮ったものだろう。様々なニューズリール的・これらは学生から撮った、多量で劣化した素材は、デモ行進(新た撮りもか)・伸びやか和やかな集まり相互確認・周りの建造物や自然ら様々な自在に選べ向きを揃えられるくらいあるが、元々の色彩濃い艶残り・褪色かで全体赤めで多彩力はないもいきいきしたカラー素材やモノクロ素材を赤めに新たに染めたのも。「L」の詩やチャメっ気や矜持も割と自由に作られてくが、この作家に付き物の、漫画風の記号や人形も加わり、硬さから抜け出してく。人間の本意に反するものへの、地盤と機知からの自然な生が存在を示し抜いてく、近い歴史と日常への認識を周りと感じ合う中の歓びが、中ほどと終わりの気負いのない多人・高名無名和気あいあいへの、嵌まりかたは真骨頂と成ってる気がする。
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 この現在までのこの作家の最新作にして、初長編劇映画⑤『私たち~』は、持ち前の短編時代の画像の際立った独特美しさから、現実の安易汚れ吸い取りの図に切り替わってて、ハッともさせられる。劇場のスクリーン他がしっかりしてないと、そっちの方が目立たないこともない。しかし、汚れた都市部の空気を前面に出した作でも、描き方に美は内在し、その現実の捉えの区切り方に、ありきたりもある種の節度が作品を押し上げてる。それは形式ではなくて、美と道徳の意識を究めたものである。
 様々な人々のムンバイに対する意識の語り被せ~田舎からの憧れと長く住んでも故郷にはなりきらない感覚・しかしどの田舎とも切り離せない位置に存在~、独特の内側から弾け息づかせる風土特有また落ち着かせには至らない音楽の多くの部分絶えまなさ、画面に被る主人公の一人の恋人とのメールのやり取り字の画面かぶせとその切迫な呼吸、カメラ移動カット中でも気付かせず普通にいつしかジャンプカットしてる縮め呼吸、劣悪めフィルムだけに滲みが美を超えた独自存在を示してる高層ビルの窓らから溢れ漏れる不思議な光感、横移動や縦移動の主観移動の捉える車や人らやメイン図のひとつ後ろの駅フォームらの存在感、診察や仲間との会話も狭さらからのポジション取りの難しさからかの正規の切返しからズレて半ば対応連ねのデクパージュ、通りからの車窓や縦の図で特定者ドラマと集まり塊りをはみ出してる人々捉えの差がない混合、らの都市部パートの重さ・暗さに埋もれて行かない為の手法は同時に内なる真実の形と溶け合ってもいる。いきいき人物の脇目少なく場や行動を進め場面転換も自らの余裕なさからもが作ってく展開、便りになる人らの紹介や互い協力に・躊躇いがなく当たってく慣習的前にだけ向くもの、一方親密連絡取れないうちの結婚の実感なさから夢見がちや・法的書類取置きなく口頭や周りとの阿吽で押してきた生活感が反古にされてく無常感ら、互いに不完全を埋め合い・決して他人を退けてののしあがりなど考えもしない意識の優しさ普通、貧しさや住まい無いへの行政への声が人々の塊りになるは・荷袋並びや通り商店街前の人々動きと変わらず・無力も形を自然作るもので導きを知らず主張してくるもの。以上のスタイル・状態は分化できず、中身と形式が不可分での胎動と耀き光を作らんと常にし、うごめいている。汚く暗く、薄暗く光を放ちが固まってくるのも、同様の質感を持ってる。何も解決しないようで、そこに甘んじる丈でない、耀きのひとつ前が絶えてく事はない。それらは条件絡み連関してる。明らかな移動の他、気付きにくい前後移動僅かや縫うようなフォローめ、雨風への窓開きと急ぎ閉じる行動への傾け対応ら、思わぬ無意識動きや、現実の覚束ない反応へのなじり普通やその表情が、テーマ等を超えて浮かんだりもする。
 大都市ムンバイの病院に勤める三世代看護師の、その中間世代のやり手をキーパーソンに不思議に繋がり、社会世界に某かを打ち出さんとする、眠る意識。暗く汚れた画面がそこへ沈み込ますのではなく、何かを生むベースとなって常に控えてる。中心のやり手看護師は、患者に限らず誰彼なく手を思わず差し伸べ、逆にどん詰りの感じ入るになるも普通も、遊びや息抜きに他の看護師のように向くことはなく、それだけに離れた客観視できる者らが感じてる事も思いもせず、一番遅れて教えられるも珍しくない。それだけに貯まってた無知への苛立ちで、当の相手に向いたりするが、また、素直に憤り行き過ぎかもと反省、自己を改めたりする、他人なら元より中中道がない。20数年住んだ住居を追い出されんとしてる、初老看護師にも、同居若い看護師の、早い上がりと遅い帰宅に、ムスリムの恋人に禁断非難もしっかり考えず、自由恋愛を当たり前として、離れた家族が勧める見合相手を断れる立場にないをはねてのめり込むに、話もしなかったことに暫く怒っても、否定は出来ず変わらず接してく。2人だけの恋愛期間などなく、決められた相手は、直ぐにドイツ工場出稼ぎで、赤い炊飯器の送られに、彼というより抑えられない悶々を感じたりするも、具体的にそのままを放置してく事しか出来ない。保たれてれば、不全もそのまま受けざるを得ない世代の、代表者。好人物も、何かに根本から立ち向かうは、考えに端から入ってない年代・世代の代表。それぞれは若い世代程、その場に合わせ・機能的実際的服装を、着分けてる。
 それらへの風抜きは、思わぬ一部は作戦的に行われ、少なくとも意識だけは更新されんとしてく、田舎に帰り知人からの仕事に就こうとする、年配看護師への助力の為の帰郷旅行が、後半、半には欠けるが、だ。何故かムスリム恋人との彼の住んでる、その家の叔父夫婦が知人結婚式出で空き家となる日の逢瀬が中止となった後の、参加が何故かあり、3人は同じ列車に乗ってる。その車窓の独自り広い美、電気も通ってないが何故か若い看護師に年配者に馴染みや心開かれを、彼女の正直だけの性格に感じてく。ムンバイの汚れ暗い空間から、粗くも、色彩も、海辺近くの拡がりも、また、暗い密林や洞窟・室内でも、互いへの切返しや身体や手の差し伸べ、低い位置から捉えの肉体重ね迄、独立した肉体の深い交わり入り込み感が、ゆくゆく稔るかどうかは別にして、可能性だけはしがらみを超えて行く。引っ越しや運びの手伝いをし、後の2人が音楽や舞いに自然積極的に馴染み入ってくを観てるだけ止まりだった事もあるように、何の解放も感じなかった、中間看護師は今日の内の戻りを宣するのだが、ラストの海辺の別荘的うちでは、漂い浮かぶように、その灯は、夜中でも暗くなる気配はない。
 それは彼女が偶々観た若い看護師が、安定的な逢瀬の洞窟を見いだし、ムンバイから密かに呼んだムスリム恋人との密会始まりと、自分も体験した霊的体験・その描写を通過したせいである。海で溺れた男を助け、看護師の技で蘇生させるも、その時のマウストゥマウスか切っ掛け・合図となり、熱い血潮が自然騒ぎ出したか、男はドイツに行ってる夫の器となり、2人でのやり直しを過去を反省しながら切り出す。夫の優しさにほだされるが、彼女が出した底を洗っての結論は、縁をハッキリ切る事。解放された彼女は、若い看護師の事を積極的に理解し、世界と彼らを繋げ認める。
 短編時代には、際立った美しいタッチで、インド古来の歴史や観念に繋がり、それを逆に呑み込んで克服していたが、長編になると僅かの浮き上がり上位タッチで、あからさまでなく、優しく実際的に細心に葬ってく。
 インドの特に女性への、押し付けや決定力の与えなさは、作者が言ってた日本の昭和30年代を更に遡り、戦前・或いは近代より前の封建時代、といった考えられないレベルで止まってるが、それら旧時代を更に未分化に戻す郷里・田舎・海辺は、都市部と反する逆転位置というより、様々な少しずつの行動や意識革命が、空気や事象の抵抗なさで延びてってるのが後半で、単なるファンタジー変換逆転とは、実は真逆の力現れなのだ。
 カラパーリヤーは、理論や組立に優れた作家ではなく、感性の伸びやかなまさぐりと予感だけに、沿い導く作家外の存在を突き詰めてゆくのか。
noma
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マンゴーを静かに食べているところ良かったな
タイトル好き
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