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渡り鳥も聴こえるの作品紹介

渡り鳥も聴こえるのあらすじ

――あなたの罪滅ぼしは、僕にとっての優しさだった。 タクシーの乗り逃げという前科を抱える小山誠太(一ノ瀬竜)は、東京で細々と生活していた。ある日、ふと思い出された雪景色の記憶を頼りに福井県池田町に移住を決意する。単身で越してきた誠太を不審がる町民が多いなか、近所の青年・清水美雪(竹内啓)はやたらと世話を焼いてくる。美雪が誠太を気にかけるのにはある理由があった。弱さを抱えたまま生きるものたちの、ほのかな連帯と再生の物語。

渡り鳥も聴こえるの監督

寺尾都麦

原題
製作年
2025年
製作国・地域
日本
上映時間
82分
ジャンル
ドラマ

『渡り鳥も聴こえる』に投稿された感想・評価

artos
5.0
誰しも罪を抱えて生きている中で、目に見える罪・見えない罪について、そしてそれらを背負って生きていくことについて考えさせてくれる映画でした。

テーマは重いが、鑑賞後の余韻は心地よく、現代を生きていく力を少しもらえた。
akko
5.0
美しい映画だったな、と思い出すたび呟きたくなる、個人的グランプリな作品だった。

やり直せること。取り返せないもの。どちらも抱えながら、みんなそれぞれに今を生きている。たとえ家族であっても、他者を完全に理解することなどできないけれど、限りなくありのままで受け止めようとしてくれる人に出会えたなら、それは本当に幸運なことだ。

誠太は美雪と出会えた。
誠太は誠太だ。
美雪も誠太と出会えた。
東京はそんな感じなのだ。

もし今はまだ、そんな誰かと出会えていなかったとしても「だんね、だんね」だ。池田町の美しい自然が、私たちを懐深く受け止めてくれる。鳥が渡ってくるのを、帰ってくるのを、待っていてくれる。

古民家の表情と光の具合にうっとりした。銭湯とお風呂のシーンも大好き。レンチンごはんの妙。ハープの優しい音色と旋律。水ようかんのおじいちゃん、たまりませんでした。
池田町に住まう友人の縁で上映を知り、自身も二度ばかり遊びにいったことのあるものだから、知っている景色がスクリーンに映るのなら見ておきたい、などというミーハーな心で渋谷の映画館に出向いたものの、とんでもなく打ちのめされてしまった。

誠太がもらった煮物を食べるところ、それから深雪と料理をするところの、誠太が泣く瞬間のそれぞれで、ぼくも泣いた。
とりわけ後者の、深雪が贖罪のために誠太を利用したこと、それでもそれは誠太にとってはやさしさだったことを吐露しあうくだりは、この映画がそれまで追ってきた主題が結実した点だったと思う。
映画の全体を、そういう二項対立というか白黒つけることへの疑義が貫いていて、それがまさに「白」そのものと呼べるような、全てを覆い隠す雪や、水面上の姿は優雅な白鳥、といったモチーフを用いて描かれており、しかも白鳥は渡り鳥の文脈からも誠太と重ねあわされていて、非常に美しいまとまりだと思った。

見えるものと見えないものの対立は、繰り返される電話のモチーフにおいても克服されるけれども、別軸ではインターネットという切口から誠太の犯罪、深雪の兄の自死、そして池田町の七ヶ条までを接続させていて、おかげで深雪の兄の話にも唐突さは薄れるし、なによりこの映画の舞台がほかならぬ池田町であることを物語っていた。

誠太の犯罪についてさらに言えば、タクシーの乗り逃げという、まさにがむしゃらの逃避がそのまま犯罪として成り立ってしまう地点において、「生きているだけでえらい」とか「死ぬぐらいなら逃げればいい」といった言説がもて囃されながらも、そうするための制度がまるでそなわっていない社会への批評が(赤子遺棄などのニュースと響きあいながら)なされていると思った。
この塩梅がとても好みだった。

というような感想は、既に件の友人を伝って監督に伝わっているのだけれども、そのときに伝えそびれたこととして、もっともっと池田町の自然を浴びたかった、と思った。
昨年の夏に池田町を訪れたときの、傾きかけた日の光をうけて水田の稲があまりにも美しく輝くのを車の窓からながめつづけた時間が忘れられず、そのような感動を味わえたらうれしかった、とどうしても思ってしまう。
とはいえそうすることで崩れる映画のリズムというのはきっとあるだろうし、これは素人の願望でしかないのだけれど。

ところで鑑賞から数日の経ったある日、笠間直穂子の『山影の町から』を読んでいたら、地方から都心に出たひとが「田舎はいやだ」と言うときの「田舎」には、「故郷、という意味と、大都市圏外、という意味」すなわち「親類や隣近所のしがらみがある、ということと、新しいものや情報や都会らしい風景がない、ということの、両方」の意味が混在しており、東京が故郷である人間にとっては、東京こそが「その家なりの束縛がある」離れたい土地であるかもしれない、ということが指摘されていて、まっさきに渡り鳥のことを思い出したりしたのだった。

まるで立憲主義など顧みない政権が擡頭し、弱さが切り捨てられる社会へとますます突き進んでいるように思われてしかたがない昨今、それぞれが弱さをかかえたままそれでも互いに生きてゆくことをそっと支えてくれるこの映画が、ひろく見られてほしいと思った。
無論、そのような社会や政治に抗いながら。