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『森繁の新婚旅行』に投稿された感想・評価

脚本キノトール・三木鮎郎・小野田勇。四国に左遷された新聞記者森繁が、平家の子孫である令嬢紫千鶴と結婚する羽目になり、新婚旅行に出れば出たで、修学旅行の高校生(!!)三木のり平・千葉信男に付き纏われ散々な目に遭う。これは胸のすくデタラメさ。とにかく森繁・三木のり平・千葉信男・小堀誠・中村メイコ・坊屋三郎らの芸の応酬に圧倒され、時を忘れる。特に森繁とのり平は自由自在、呆れるほど面白い。森繁・渡辺コンビの中では傑作と言っていい出来栄えに思う。
☆「虻蜂座」について

昭和29年(1954年)11月。
有楽町の東京ヴィデオホールにて、「虻蜂座」の旗揚げ公演がおこなわれる。ドタバタ、ナンセンス、実験的な芝居とバラエティショー。「虻蜂座」の同人は、三木鮎郎、千葉信男、小野田勇、三木のり平、キノトール、市村俊幸、矢田茂。ここに森繁久彌らも加わった。美術に加藤芳郎、西川辰美ら、漫画家の名も。のちにフランキー堺。各界で活躍する面々が集い、自由な自己表現の場とした「虻蜂座」、その在りし日の姿の貴重な一片が、本作『森繁の新婚旅行』にある。

本編中、森繁久彌が歌舞伎座にゆくと、「アブハチカブキ特別興行 通し狂言 仮名手本忠臣蔵」なる演目が上演されている。劇中劇。出演者は森繁、千葉信男、三木のり平。舞台上でドタバタ喜劇が繰り広げられる。
〈これは映画のために作った舞台ですけど、虻蜂座っていうのはああいう感じです。〉と『何はなくとも三木のり平』で小林のり一氏、〈脚本も、キノトールさんと、三木鮎郎さんと小野田勇先生ですから、虻蜂座のメンバーで作った映画ですね。〉
監督は早撮りの名人といわれた渡辺邦男で、森繁の早稲田の先輩でもあった。

〈四谷四丁目の建てて間もない新居にメンバーが連夜集まりワイワイやっていました。〉
〈夜中に僕の四谷の家が稽古場になるんだよ。まあ、劇団事務所兼稽古場みたいなもん〉。一階の、だだっぴろい広間に人が集い、賑やかにやった。地下にも稽古場として使えるひろい空間があった。

森繁久彌は「不世出の役者、三木のり平」で、〈のり平、千葉信男、三木鮎郎、小野田勇、キノトール、フランキー堺、のちに八波むと志も加わって、私たちは、アブハチ座というなんともヘンチクリンな一座をこしらえた。半分は道楽で金を出しあって、()稽古も、()芸者は花代なしでお茶の接待などやらし、稽古をしているのか遊んでいるのかワケの分からんようなものだった〉と回顧する。
高平『アチャラカ』では〈三木のり平は1979年に森繁久彌、三木鶏郎、千葉信男らと「虻蜂座」というフリーな劇団を結成しました。虻蜂座は、まさにアチャラカ喜劇を目指した喜劇集団〉と評される(一緒にやったのは鶏郎ではなくその弟鮎郎、1979年は昭和29年の間違いか)。一方、小林『日本の喜劇人』では〈売れっ子のコメディアン、放送作家たちが「自分たちは、これでいいのか?」という反省から始めたグループ活動は、有島一郎が言い出したものであったという。/有島が理由あって外れ、のり平が中心になった〉あとに森繁らが合流したと書かれているが、小林信彦の偏った独断と断言癖をおもうと、形容ともども鵜呑みにするわけにもいかない。
設立者のひとり、三木鮎郎によると〈大阪のあるホテルで朝飯を食っていた。千葉信男、小野田勇、それに小生という顔ぶれの間で、()そんな話がもちあがってきた。さて、これが東京に帰って、具体化しだしたのは、のり平をくどき落としてからだ〉という。有島も、結成以前にそんな話の場に居合わせたのかも知れないが、創設者のように書くのは危うい気がする。

のり平への聞き書きで構成された『のり平のパーッといきましょう』には、〈「気の合った連中で芝居をやろうよ」って軽い気持ちではじめた〉もので、〈森繁久彌、市村俊幸、小野田勇、千葉信男、三木鮎郎、矢田茂、キノトール、それから有島一郎だったかな。〉と。「だったかな」と有島だけ微妙な扱い。
『何はなくとも~』に掲載されている第三回までの出演者一覧に有島の名はない。しかしこの活動から有島が距離を置いたかんじもなく、『パーッと~』には虻蜂座野球チームでの試合時、ユニフォーム姿でのり平と肩を組む有島一郎が写っている。虻蜂座チーム対漫画家チームで試合をするイベントもあったらしい。
参加も不参加も、かなり流動的なものだったのではないでしょうか。同じく『パーッと~』、打ち上げの写真には(『何はなくとも~』のリストにはない名前では)宝田明、加東大介、小林桂樹、山茶花究、小泉博、藤村有弘の姿。

有島一郎によると、〈彼(有島)が三木のり平君とコンビを組むようになったのは、この東宝ミュージカル公演の時からだった()のり平君は無類の酒好きであったが、彼の方は全く飲めなかったので、コンビは組んでいても一緒に遊ぶことはほとんどなかった。〉
この東宝ミュージカル第一回公演が昭和31年(1956年)2~3月。虻蜂座第一回公演は昭和29年11月。一年一回ペースで昭和第三回公演は昭和31年5月。有島が立ち上げ当初に関わっていそうな状況はあまりなさそうに感じます。

***
☆(田沼)家に(漫)画家がいること

〈加藤芳郎さんとかの漫画家集団が美術に入っているのは、のり平と仲が良かったからで、無料で手伝ってくれました。〉
野球大会といい、のり平と漫画家たちの交流は親密なものに見えますが、今一つ繋がりがよく分からない。

子供のころからのり平(田沼則子)は絵が上手で好きだったらしい。それを見ていた父は、のり平を画家にしようと思ったらしく、〈気のせいか、()家に貧乏画家がたくさん来はじめた()そうなると、教えてくれるわけだよ。貧乏画家でもプロはプロなんだから。〉
画家になるべく美大を受けるが不合格、日大専門部芸術科で美術を専攻する。そして大学に入って、学生劇団の美術を手伝ったことが、役者の世界への道をつくってゆく。
桃屋の広告やCM での自筆によるキャラクターがコミカルな“漫画”が、のり平の長年のライフワークのひとつでもあったのは、幼少の頃からの絵への指向がずっと残っていたことのあらわれでもあったでしょう。

そんなこんなで、息子のり一が幼少時の四谷の家には、虻蜂座近辺の仲間たちが始終出入りしていた。そこには、(どんな経緯で親しくなったのか分かりませんが)親しい漫画家たちもいたのでしょう。奇しくも、のり平の子供のころと同じように、田沼家は絵かきがウロウロしている家となった。

のり一には様々な肩書き?がありますが、ある時期、『ガロ』などに作品が掲載される漫画家でもあった。幼少期に漫画家たちと接していた影響は、どのくらいあるのでしょうか。

そしてのり一の息子、のり平にとっては孫が子供の頃、家に蛭子能収が出入りしていたと昔耳にしたときは、のり一氏のことはよく知らず、のり平に何か関係しているのかと単純に思っていましたが、今思うとのり一と『ガロ』の南伸坊、糸井重里ら面白主義グループというラインだったのでしょうか。のり一の原稿が初めて『ガロ』に載ったのが79年、蛭子能収は73年に『ガロ』入選作が掲載、81年には青林堂から単行本が出版される。
他にも出入りしていた漫画家が居たのか不明ですが、孫の代でもその子供時代に漫画家が四谷の家をウロウロしていた。
これはなんでしょう…のり平の親の時代から代々つづく、子供の成長には家に画家がうろついていた方が良いという、奇妙な教育方法というか、不思議なオブセッションでしょうか…