あかぬ

ギルバート・グレイプのあかぬのネタバレレビュー・内容・結末

ギルバート・グレイプ(1993年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

アイオワ州のエンドーラという小さな田舎町で生まれ育ったギルバート・グレイプが主人公。
10歳までもたないと言われていた知的障害を持つ弟アーニーは、その年を超えて18歳の誕生日を迎えるが、医者は「その先はない」と言う。
17年前に父親が自宅の地下室で首を吊って自殺。
母親はそのことがきっかけで過食症となり、歩くのも困難なほどの肥満体形になってから、人々から嘲笑されるのを恐れ、7年もの間一歩も外へ出ていない。
そしてギルバート自身も、どこへも行けない、と思っている。

何日かかけてこの映画について自分なりに考えてみた結果、これは、そんなどこへも行けないって思ってる"みんなの"解放の物語なのかなという解釈に行き着きました。
実は初見で納得のいかなかったボニー(母)の最期とその後子供達がとった行動も、主人公ギルバートだけでなく"みんなの"解放ととればなんとなく納得がいくような。

・それぞれの解放の物語
《ボニー》
アーニーの誕生日パーティでギルバートからベッキーを紹介される場面。自身の容姿に引け目を感じていたボニーは、最初は会うのを嫌がっていたが、ベッキーの偏見を持たない姿に笑顔を見せる。
はじめて家族以外の人間から受け入れられ、幸せな息子の姿を見届けたあと、ボニーは久しぶりに2階のベッドで眠ることを決意。自力で階段を上がり家族を驚かせるも、ベッドに横たわるとそのまま息を引き取ってしまう。家から外に出すためには多くの人手がかかることから、笑いものにはしたくないというギルバートの考えで、家と一緒に焼かれる。
賛否両論分かれそうな結末だけれど、この世に未練を残すことなく自分の選んだ場所で息を引き取り、家族にのみ見送られる最期は、彼女が一番望んだ形だったのかもしれません。

《ベティ》
ギルバートと不倫関係にあった人妻のベティは、夫と子どものいる家庭から一生逃れられない(この町から出られない)と、人生に対してどこかあきらめているように見える。物語の終盤ではベティは夫を排除(真相はわからないが)することで、夫と町からの自身の解放を成功させました。

決して美しいストーリーではないにせよ、自分で選んで自分で決めるということをこの2人は実行しているように感じる。

・ベッキーとアーニーについて
"外の世界"からトレーラーに乗ってやってきた旅人ベッキーと出会うことで、自分の人生をあきらめ、全てにおいて家族のための選択をとってきたギルバートがはじめて自分の人生について考えるようになる。
「『何をするか』が大切だ、あなたは何をしたい?」というベッキーの問いに対して、ギルバートは「ここでは何もすることがない」と答える。
「何もすることがない」と割り切って退屈な日々を過ごす町の住人たちは自分が何をしたいのかがわからなくなっている。それとは対照的に、アーニーは自分が何をしたいかが常に明確。お風呂に入りたくなきゃ入らないし、登ってはいけない給水塔には性懲りも無く登り続ける。
何もない町でアーニーだけは給水塔のてっぺんに自分だけの"外の世界"を見出していて、土地に囚われることのない自由な生き方を貫いている。そういった意味で、アーニーはこの町で異質な存在だと思う。ボニーが言っていたように、アーニーには本当に太陽という言葉がぴったりだ。

どこへでも行けるベッキーとアーニー、どこへも行けないと思ってるギルバートたちの対比が描かれます。

"外の世界"からやってきたベッキー、すでに"外の世界"を見出しているアーニー、そしてボニーとベティの選択、ギルバートの周囲にいたさまざまな人物の行動が彼に影響を与えた結果、あのラストに繋がったのかと腑に落ちた今は心がとても晴れやか。


「小さな3本の木」へ、この映画を教えてくれてありがとうございます!
あかぬ

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