この作品はスコセッシの刻印が深く、明らかに垣間見える。
「罪」と「贖い」の物語の深奥に。
主題は、まさに「妄想」である。自らの「タクシードライバー」と同じく。
ボクシングの様式を用いた「暴力」と主人公の「愛」の狭間に躍動する「嫉妬」の源は「妄想」にしか他ならない。
「妄想」が主人公に「暴力」を喚起させて「人格」を形成させ「罪」を為させる。
その果てに在るのが「贖い」なのである。
では、どのようにして「贖い」が成立するのか。
それはボクシングを捨てるときである。形だけにおいても「暴力」の手段を捨て去る第一歩を踏み出すときである。
何故なら、少なくとも主人公にとって、ボクシングは〈スポーツ〉ではなかったのであるから。自らの「憎悪」を吐き出す捌け口であったのであるから。
主人公はボクシングと訣別する。
ここから、「贖い」が主流として始まり出す。見事な肉体を捨て去り、豊富な財産をも失う。そして、妻をはじめ家族とも別れる。
それらは何を意味するのか。
それは「愛」を見出だす遍路である。
主人公は、場末の芸人と成り果てる。けれども、そこに悲壮感はない。ようやく自らの「居場所」を見つけ、弟にも優しく抱擁する。
主人公は、かつて何も見えていなかった。しかし、いまは見える。
何を?
それは言うまでもない。
スコセッシは、常に「妄想」に囚われた男を描く。けれども、そこにはもはや「罪」をほのめかさない。ただ「贖い」をそっと提示する。加えて、その手段をも。
「ザッツ・エンタテインメント!」