久保坂涼

レイジング・ブルの久保坂涼のレビュー・感想・評価

レイジング・ブル(1980年製作の映画)
5.0
この作品はスコセッシの刻印が深く、明らかに垣間見える。

「罪」と「贖い」の物語の深奥に。

主題は、まさに「妄想」である。自らの「タクシードライバー」と同じく。

ボクシングの様式を用いた「暴力」と主人公の「愛」の狭間に躍動する「嫉妬」の源は「妄想」にしか他ならない。

「妄想」が主人公に「暴力」を喚起させて「人格」を形成させ「罪」を為させる。

その果てに在るのが「贖い」なのである。

では、どのようにして「贖い」が成立するのか。

それはボクシングを捨てるときである。形だけにおいても「暴力」の手段を捨て去る第一歩を踏み出すときである。

何故なら、少なくとも主人公にとって、ボクシングは〈スポーツ〉ではなかったのであるから。自らの「憎悪」を吐き出す捌け口であったのであるから。

主人公はボクシングと訣別する。

ここから、「贖い」が主流として始まり出す。見事な肉体を捨て去り、豊富な財産をも失う。そして、妻をはじめ家族とも別れる。

それらは何を意味するのか。
それは「愛」を見出だす遍路である。

主人公は、場末の芸人と成り果てる。けれども、そこに悲壮感はない。ようやく自らの「居場所」を見つけ、弟にも優しく抱擁する。

主人公は、かつて何も見えていなかった。しかし、いまは見える。

何を?

それは言うまでもない。

スコセッシは、常に「妄想」に囚われた男を描く。けれども、そこにはもはや「罪」をほのめかさない。ただ「贖い」をそっと提示する。加えて、その手段をも。

「ザッツ・エンタテインメント!」
久保坂涼

久保坂涼