地味でTV用作品といっても通る、W・ワイラーの遺作であるが、カラーになってからのコマーシャルベースが対象・題材を強いてるかのように見えた中で、巨匠の座にあぐらをかいていない(或いはメインを外れたせいか)、事象に対し、正直な視線を回復している(或いはそうにしか題材を見つけられなかった?)。妻と他の女をイメージ的に結びつける細かいカッティングもあるけれど、基本的に’60年代のラジカルでサイケな流れから、荒んだ下地が表れてきた’70年代物トーンの流れに沿っている(ワイラーらしい広さ・深さ・高低の峻厳な図を欠く~階段の活かしも少なく)が、核にある苦渋・決断の意志や表情の押さえには力ある。車窓からの流れのシャープさや限られたカメラワークも確かだ。アメリカ地方都市の、人種間の差別とそれに根ざした屈折し歪み錯綜した依存と支配の関係と意識、それが大元・表立ったところを揺らし始めると、鬱屈し短絡的な暴力が陰で起こってゆく、それすら呑み込んでしまう体制の見掛けの不変・安定への無力・従順が端から覆い、最終的にも全てを包み込んで括ってゆく内容。内容のせいなのか、バジェット・モチベーションの為か、作品に念押しや極めがない。
日本公開当時、確か孤高の名作公開で定評のあったATG配給で中央限定、まだワイラーという名もまだまだ日本では神通力があった時代、キネ旬のベスト10に入っていた。敢えて観たいとは思わなかったが、気にはなっていた。果たして同時期のフォード(’66)やホークス(’70)の遺作の凄さ・素晴しさから比べると相当に落ちるが、名前を貶めるものでもなかった。
ワイラーは戦前から充分に尖鋭・気鋭の鬼才であったし(スラムや風説からの社会の頽廃扱ったり、女性の中の鬼を描くのに演劇・歴史世界へ入る)、戦後も世界が向き合う問題を真正面から引き受けたり・豊穣な教養をいきいき披露する巨匠ぶり、で我々の世代ではヒッチコック・フォードより一段高く見る人も少なくない。高名な撮影監督トーランドとのコラボは有名だ。個人的には、確かに気品・厳しさ・慈愛は認めるも、’50年代を中心とする、あの独特の演技最良を繋いでるのか・美学運動的契機のないカッティングには、アレルギーに近い違和感を感じ続けていた。が、今ではあれはデクパージュのルーティンによる緩み・隙間を締めて、張り詰めを戻す直感的処置だったのかな、という気も半ばしている。『孔雀夫人』『月光の女』『必死の逃亡者』辺りは傑作と思ったし、『黒蘭の女』『偽りの花園』『我等の生涯~』『女相続人』『黄昏』『ローマの休日』辺りも悪くなく、楽しませてもらった。『大いなる西部』『ベン・ハー』辺からは凡庸さが増したが。昔、結構面白かった『コレクター』も今観ればどうだろう。アカデミー賞監督賞ノミネート最多の十数回というのが信じがたい、当時のアカデミー賞はバカにして嘲るのが通例だったにしても、彼以上に優れスポットライトを浴び、更に自由に大胆な作品製作に乗り出すべき天才は数多くいた筈だ。