フォスフォ

キートンの探偵学入門/忍術キートンのフォスフォのレビュー・感想・評価

5.0
このキートンの圧倒的な身体能力! 劇中劇に摺り変わるパートから如実に表れてくるが、キートンは単なるコメディとしてみずから転倒するのみでなく、キートンが世界の側を転倒させている。だからこそ劇中劇の目まぐるしくカットが入れ代わるシーンで画面中央に位置したまま、キートンはその余りにも映画的な身体の身ぶりをさらけだすことができるのだ。中心にあるのはキートンの身体及びそこから沸き出る身ぶりであって、映画内の世界と文法はあくまでそこに従属する。時計のすり替え、映画と作中現実のすり替え、爆弾ビリヤードのキューのすり替え、オモテ/ウラを簡単にひっくり返してどこまでものびのび跳躍するこの映画のなかで、その幾度とないすり替えを補填するのはキートンの肉体であり、特に、劇中劇のパートに突入して以降のその手付きは名探偵というよりも練磨された感傷的なスリの優美さだ。肉体を軸にしてあらゆる文法をひっくり返し、すり替えながら、しかしそのくるくる回る回転扉の肝心な軸の自由闊達な梁の役目をはたすキートンの身体及び身ぶりはさらに冴えざえと、どこどこまでも躍動する! キートンのこの圧倒的な肉体に、ほかの役者、文法、物理法則は翻弄されることしか敵わず翻弄されながら、それがより一層キートンの身ぶりの華やぎを亢進させる。その証拠に、終盤、脚/自転車/バイク/車といった乗り物に乗ったキートンを停められるものは誰もいない、驀進するキートンにすべては薙ぎ倒され、あるいは喜劇的な予定調和と変貌し、そのなかでより切れぎれとキートンの肉体は耀き、その身ぶりの一切は神聖を帯びる。そして、この映画の肝要なのはこの余りにも映画的な身体が終盤で脱臼させられることであって、すり替えの連鎖、つまり劇中劇から復帰した単なる映写技師に過ぎないキートンは、こちら側の我々鑑賞者の映画の夢を味わい、観終わってしまったあとのあの惚けぶりと落胆を先回りして如実にあらわすようだ。しかし、ここでキートンとヒロインは結ばれる。映画的なすり替えを通してあれほどまでに映画を顕揚したキートンは、さらに先を行ってこちら側の鑑賞者までをも予め救ってくれるのだ。なんて素晴らしい映画だろう!!!
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