カラン

ピアニストのカランのレビュー・感想・評価

ピアニスト(2001年製作の映画)
4.5
ウィーンの音大に勤めるエリカ(イザベル・ユペール)は40になろうという年齢だが、母と暮らし、母と寝る。方々で自傷と自慰を繰り返す彼女のところに、弟子入りを希望する若い男がやって来る。。。


☆アケルマンから

かの有名な『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コルメス河畔通り23番地』(1975年)は、女に規則的な運動を繰り返させ、それをほぼ一定の角度で定点撮影しながら、この規則性は女が固執しているものなのであり、そのうんざりするような規則性こそが欲しいのであり、強迫的な儀礼となっており、もしその規則性が破れるならば、女の精神が破綻するという圧力を帯びるまでに、運動を執拗に描くものだった。アケルマンが描写するこのような運動をしつこくて、つまらない、と感じなければ、映画のラストを享受できないという、パラドキシカルな構造になっているので、ギリギリのバランスでこの作品は成立しているのであった。


☆ハネケへ

ハネケはそういうアケルマンのマイナーな女の精神についての映画を、ウィーンの音大のピアノ教師の女に設定し直す。ブリュッセルでは女と息子と客の男たちだったのが、ウィーンでは女と母と若い男となる。強力な母と若い男の間でピアノ教師をするのだが、ブリュッセルの女を規則的な家事に勤しむのを真っ直ぐフィクスで撮ったように、何度も映される鍵盤上の運指は真っ直ぐフィクスで撮影される。


☆手紙①

ブリュッセルの女のルーティンのある時に手紙の話になったように、ウィーンのある日のピアノの天板には手紙が乗っている。手紙が果たす役割も似たようなものである。ブリュッセルでは孤独なディスコミュニケーションの直接的な表象である。ウィーンではSM的な契約書なのであるが、以下に説明するように、このSM的関係は必ず破綻するのだから、結果的にはディスコミュニケーションを示す。


☆S&M

ブリュッセルの女の家事は強迫行為として精神を保護していたわけだが、ウィーンの女の場合は、母と若い男の両方から自分を守らなければならない。母と寝るベッドで、女が母の股間を確認するのは、女の性的関係は母の股間との関係となることを示している。母の股間のあり方こそが自分の股間のあり方なのであり、だからこの女の陰唇を剃刀で切開するといったSM的な性関係は、そのまま若い男との関係でも反復されることになる。したがって、母との性関係をコントロールするということが若い男との性関係の賭け金となっているのである。母に邪魔されないように、自分の性生活を見せなければならないのだが、なにぶん難しく、若い男との関係に失敗したので、ナイフを握るが、刺殺すべき男は爽やかに階段に消えていく。


☆手紙②

SM的物語、例えば『閨房の哲学』や『O嬢の物語』、或いは、『毛皮のヴィーナス』等を読むと、契約や法が問題になっているのが分かる。本作の「分厚い手紙」はこうしたSM的な契約関係を語るための手紙となっている。SM的関係と手紙というのは非常に魅力的なモチーフである。


☆シャンタルからミヒャエルへ

ハサミでそこに横たわる身体を刺す。他の身体がないならば、どうすれば良いのか。ナイフで自らの身体を刺すのである。ハサミからナイフへ、ブリュッセルからウィーンへ、他者から自身へ、SからMへ。


☆性関係3部作

たまたま、本作を観る直前に、ラース・フォン・トリアーの『アンチクライスト』(2009)を観返していた。これもまた素晴らしい痛みと性的関係の物語なのであるが、ハネケの『ピアニスト』とは全く違う。両者ともに女性器の割礼という去勢をめぐる。性的なものについての芸術的表象を考えたい人には、これらの3作、『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コルメス河畔通り23番地』と、本作『ピアニスト』と、『アンチクライスト』を連続して見返すことを勧めたい。本レビューでは共通点を多く語ったが、実際には、その多様性に驚くしだい。(^^) 私は『アンチクライスト』の直後に本作を観たのが昨日の夜。昨日は完全に呆けて、頭が真っ白になった。ぜひ、皆さんにはアケルマンとの3タテを勧めたい。女性監督のアケルマンはともかく、ハネケとトリアーは結構頑張って、女の対男の性関係を描いているのじゃないかと思った。まあ、大きなお世話だし、勘違いの戯言は大概にしろって怒られるから、この辺にしておこう。



レンタルDVD。画質はいまいち。5.1chサラウンドの音質は十分。
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