青雨

ピアニストの青雨のレビュー・感想・評価

ピアニスト(2001年製作の映画)
4.5
男性がオイディプス神話に象徴されるような「父殺し」へと向かう宿命をもつなら、女性もまた別の神話による「母殺し」へと向かう宿命をもつのではないか。

しかし、彼女たちは直接的に母へと向かうのではなく、その切先は自分自身へと向けられることがある。このことを、たいへん高い象徴度で描いた作品のように思う。

ミヒャエル・ハネケという、要注意人物を知らなかった20代の僕に、トラウマを残したピアノ映画。長い間封印していたものの、30代の終わり頃に再び触れて、圧倒されることになった。

話の骨格そのものは単純なもので、母親の抑圧から逃れられずに中年期を迎えた女が、マゾヒズムとして逃がしていた自我を裏返すように、サディズムや、性的な倒錯や、病的に屈折した行動を次々に起こすというもの。

娘による象徴的な「母殺し」を描いたものとしては、『ブラック・スワン』(ナタリー・ポートマン主演, 2010年)がこれに近いかもしれないものの、本作に比べれば『ブラック・スワン』が爽やかにすら思える。

クラシック音楽と、クラシックバレエ。どちらも古典芸能であるがゆえに、幼少期からの過酷な訓練の先に、狭き門をくぐっていかなければならない。その修練の過程で、毎日のようにサド・マゾ関係が繰り返されるのは、そのようにしてプロとなった多くの人々によって証言されてもいる(そうした書籍は山のようにある)。

デイミアン・チャゼル監督『セッション』(2014年)もまた、この関係を装置として用いており、主人公の青年が直接的な「父殺し」へと向かったことと、本作のラストに描かれる「母殺し」が、どのような軌跡をたどったのかを見比べてみることは、大きな意味を持つように思う。

ある意味では単純な抑圧構造のなかに、割り切ることのできない、小数点以下の数字のようなナイーブさと切実さが描かれる。イザベル・ユペールの女優としての力も素晴らしく感じられ、ミヒャエル・ハネケの演出もことごとくが凄い。

抑圧的な母親に反発しながらも、共依存するようなその姿は、図式的な関係を超えて、女がもつ何かを切々と表現しているように感じられ、長い年月をかけて倒錯してしまった性を、若い男に開いていく時に見せる嫌悪や、不感症や、自傷性もまた、女にとってのある極点を描いているように感じる。

そして、ラストの舞台を前に自身の胸をナイフで突き刺し、すべてを捨てて、会場を去ったあとのエンディングの無音には、圧倒的な効果と象徴性が宿っていた。√2=1.41421…のように、女性がもつ無理数のような広がりが、映像から痛切に伝わってくるようだった。

少し間違えるだけで、悪趣味になってしまうだろう路線であるにも関わらず、これほどの格調の高さを演出できるのは、ミヒャエル・ハネケくらいかもしれない。スタンリー・キューブリックの爬虫類のようなまなざしとは、また趣きが異なり、ハネケには人の血が流れているように感じる。

ピアノ曲の使い方も素晴らしく、主に使われるシューベルトの作品の数々は、この作曲家の本質を伝えて余すところがない。
青雨

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