黄金綺羅タイガー

殯の森の黄金綺羅タイガーのネタバレレビュー・内容・結末

殯の森(2007年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

尾野真千子が真千子という名前で介護士の役をやる。
真千子と自分の名前を書いた習字を、隣に座っていたその施設の老人のしげきに“千”という文字を塗り潰される。
このシーンを見たとき、あれ? これって千と千尋なの? とぼんやりと思っていた。
そんなことはないだろうと思いつついたが、観進めていくとあながちそんなことないこともない気がしていた。
というのも最初はあくまでも人間社会の現実のなかでのドラマであったが、中盤以降、森に分け入っていくにしたがって、それが現実なのかファンタジーなのか、もしくは心象風景なのかが曖昧になってくる。
現実の生活のなかにある心の問題を“森”という象徴で比喩として表して、そのなかに分け入るという様は『千と千尋の神隠し』に通じるところがないわけでもないのかなと思っている。

この映画は大切な人を亡くした人がその死を悼み、その痛みから解放されるまでの物語なのだろう。
しげきは妻を、真千子は子どもを亡くして、その呪縛から逃れられていない。
その二人がどう死と向き合っていくのかという映画だ。
しかし後半は抽象性が非常に高いので、この映画をどう解釈するかは観る側に委ねられている部分も非常に大きい。
森の中のもので象徴的に比喩しているので、全くわからないということもない。

ただし川のところの表現などは、これは僕が日本人だから解るだけで文化の違う外国の人々だと解らないのだろうかといろいろ考えたりもする。
しかし川は“三途の川=死”の象徴と、(夫と真千子の話の内容や表現から推測するに)真千子が“川で子どもを亡くしたこと=死”のダブルミーニングになっているのだろうから、文化が違くても多少は伝わるのだろうか。

象徴といえば、この映画では色も大事な要素になっている。
この映画は全体的に色味が少ない。
人物と人工物以外は緑だ。
舞台が森となる後半には画面はもうほとんど緑だ。
人が緑に呑まれていく映画。
その緑の中にときどき赤が印象的に使われることがある。
この赤というのは生命や本能の象徴なのだろう。
食べるという行為を割れたすいかで表したり、温め合う行為を火で表したりしている。

またこの映画を観る上で大事になってくる要素がもうひとつある。
それは真千子に主任の言った
「こうしゃなあかんということないから」
という台詞である。

大切な人の死を引き摺る彼らは、死した人と過ごした過去やその人の存在に縛られている。
それは彼らにとっては“こうしゃなあかん”ものたちである。
忘れないことで、いつまでも自分のなかに留め置いている存在だ。
それを同じ傷を持った人に出会って、しげきは真千子に真子を見出し、真千子はしげきに夫と子どもを見出して、こうしゃなあかんものたちの代償にしていったように僕には感じられる。
そしてお互いにお互いの荷物を背負わせて、徐々にお互いそのものが生きる支えになっていったように感じる。

しかし背負ってきた時間の長さは変えられない。
長く背負いすぎたしげきは彼がいけるところまで辿り着き、“こうしゃなあかん”を抱いて共に朽ちていく。
真千子はその姿を見届けることでしげきからその生き様と、彼との思い出を彼女が生きていくうえでのささやかな希望として継承したのだと感じた。
最後のオルゴールはその象徴であるような気がする。