あんじょーら

おとなのけんかのあんじょーらのネタバレレビュー・内容・結末

おとなのけんか(2011年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

ロマン・ポランスキー監督作品でたぶん1番有名なのは「ローズマリーの赤ちゃん」でしょうか?私はあまり見たことがない監督ですが、なんといってもシャロン・テートの旦那さんとして認識しています、あのチャールズ・マンソン事件ですね。見たことある作品としては「ナインスゲート」と「赤い航路」くらいでしょうか?どちらも特殊な映画でした。


今回は予告編を見て気になったのと、ジュディ・フォスターとケイト・ウィンスレットが出ていて、しかも登場人物が4人であり、室内劇であるのが興味惹かれました。



子供同士の喧嘩にあたり、当事者ではなくその両親が和解を目指し、被害者宅であるロングストリート家に集まっています。被害少年の母であるペネロペ(ジュディ・フォスター)とその夫であり金物屋であるマイケル(ジョン・C・ライリー)はフランクな感じを出して来客である加害少年の母ナンシー(ケイト・ウィンスレット)と弁護士であるアラン(クリストフ・ヴァルツ)を迎えようとしているのですが、会話も弾みません。それでも何とか形を取り繕おうとしていると・・・というのが冒頭です。



このキャスティングがある意味絶妙でして、男性陣はほとんど知らない方なんですがマイケル役のジョン・C・ライリーは「ギルバート・グレイプ」に出演しているようで、全然覚えてないです、が、「ギルバート・グレイプ」は結構好きな映画です。アラン役のクリストフ・ヴァルツさんは「グリーン・ホーネット」の妙な悪役でしたね、全然分からなかったです。ジュディ・フォスターの役が、どこかしら実際のジュディ・フォスターの悪い部分のイメージを助長させたようなキャラクターで、しかもケイト・ウィンスレットもやはり同じようにパブリックなイメージのわざわざ暗部を誇張したかのようなキャラクターで、それだけでもう笑わせます。



理想家に見えるペネロペ(ジュディ・フォスター)とマイケル夫妻の、対照的に結果主義的に見えるナンシー(ケイト・ウィンスレット)とアラン夫妻の、結末に至るまでの変容が、実に見事で、それぞれの立ち居地がかなり変化していて、しかしその実かなり自分の底を透かしてみせる見せ方がとても上手くて面白かったです。脚本、練られてますね!素晴らしい!個人的には私は、確かに鼻に付くけど、ペネロペを擁護したくさせます、もちろんマイケルの立場のせつなさも理解しますけれど。


また、散々やりあう「おとな」とオープニングとエンディングでの「こども」のやり方の対比も面白かったです。


おとななみなさんに、オススメ致します。


アテンション・プリーズ!


ネタバレあります、未見の方はご注意くださいませ!








































ペネロペの論理的で理想的であろうとする姿、正しいものに向かって努力をしようとする姿には、肩を持ちたくさせるんですが、アランの言う「法のでのけんか」や「自己満足でしかない~」というセリフは非常に重たく、ぐうの音も出ません。ペネロペが感情的になった段階で勝負ありなんですが、だがしかし、アランの結果主義にはどうしても馴染めません。強者の理論であり、野蛮であることにストレート過ぎると感じます。また結果責任の実際のところの放棄でもある、というところも否めません。


ですが、ペネロペのご都合主義的理想論も鼻に付きます。でも、だからこその論理を尽くして欲しいです。この映画ではなんのかんのと議論が続いているようであまりかみ合っていない、論点のすり替えが多発していて(もちろんだからこそ一人一人のキャラクターの些事が沸きあがってきて、観ている観客の感情を揺さぶるんですが)、もう少し冷静になっての論理展開がある映画があっても面白いかな?と思いました。


また、最初はとてもまともな男に見えたマイケルの感情の爆発には、とても考えさせられました。男性であり、彼女と生活したことがある方ならばある程度の方が感じるであろう相手の話しを飲むことで交換条件を出す折衝のオリが溜まってゆくことを、強く思い出させました。感情的になった人を相手にすることの不毛さから、どうしても条件を飲むことを覚えて、ついそのやり方を繰り返しているうちに、自分でも気がつかないほど感情的なコリで固まってしまっていることを。


怖いのがアランとナンシーでして、アランの怖さは想像のない部分で、これは理解し得ないかも知れない怖さなんですが、より恐ろしいのは理解も出来ないし、そこへ感情によって煽られるナンシーの怖さですね。私も理論に逃げている自覚はありますけれど、ナンシーは感情を何よりも優先させた行動を取り(もちろん酔っ払ってたり、我慢に我慢を重ねた結果かもしれないけど)、責任は取らないで、同じ目に自分が遭うと他人に責任を転嫁する、という非常に怖い、しかし女性と暮らしたことがある方なら結構な割合で体験したことがある理不尽を思い出させます(あ、今私、世界の半分くらい敵に回した・・・)。アランの携帯を水の中に入れる、という取り返しのつかなさを、感情に任せてやってしまう部分も恐ろしいですし、同じことを経験すると(バックを投げられる、という携帯水没よりは取り返しのつかなさとして低いものであるのに・・・)と皆を批判するという自分本位度の高さが恐ろしいです。でも、こういう事言うと、お前は男として器が小さいだの男っぽくないだのという批判をされますが、貴方はそんなに女っぽいことに批判されたいか?器の大きさは男女差があって良いのか?と切り替えしたくなりますが、何を言ってもこういう方とは溝が埋まらない気がします、それでも議論は必要だとは思いますけれど。だから私はメンドクサイ奴なんですがね。



そして頻繁に携帯で会話を遮るアランの、仕事という金銭的な背景を盾に生活のリズムを乱し自分勝手な言動にある種の免罪符を生み出す力の論理を、ナンシーが突如暴力的に破壊する行動に出たときの、場内の女性陣の歓声は、なかなか妙な説得力がありました。これ笑えましたけれど実生活でこの種の事をやられたら間違いなく私は相手との接触を今後出来るだけ避けますね。


と、「おとな」が一皮剥けば「こども」より幼稚な存在になりうることを魅せる素敵な映画でした!いろいろ考えさせられるのも良かったです。