「炎のアンダルシア」
冒頭、時は12世紀のカリフ統治時代のスペイン、アンダルシア地方。火破りの刑、歌って踊って涙する人々、焚書、弾圧、思想、音楽、危険視。今、運命をかけた彼らの戦いが映される…本作はユーセフ・シャヒーンが監督、脚本を務めた1997年のエジプト映画で、カンヌ国際映画祭がパルムドール賞受賞させたいほどに傑作だったと評価し、第50回記念特別賞を受賞させた一本で、長らく廃盤だったDVDを先日安い値段で見つけてしまい速攻で購入して初鑑賞したが面白い。製作国にフランスが入っている分、アラビア語とフランス語がある。どうやら日本ではアラビア語から直接翻訳されずに、映画祭に出品された際のフランス語訳をそのまま日本語訳に翻訳したようである。
本作見る前はカリフ統治時代のスペイン・アンダルシアを舞台に言論弾圧に抗議する映画だと言う前情報しか入れてなく、実際に映画を見てみるとあまりのエンターテイメントさにびっくりした。ミュージカル要素も入り込み、インド映画さながらのエンタメがある。また、アクション要素が強いわけでも無いが、色々とインパクトのある映像が冒頭から繰り広げられる分、ー種の派手さも兼ね備えている。反イスラムを唱える映画だけに終わってないのにも共感できた。ただこの映画の難点を言うと登場人物があまりにも多すぎる。それと直訳できているものがやはり難しいのか、所々にニュアンスが違うと感じ取れる場面がある。
今回DVDの特典映像に撮影風景と授賞式映像があって非常に良かった。カンヌ国際映画祭で心のパルムドールと大絶賛されただけの作品ではあるなと感じたが、やはり先ほども言ったようにインドらしい味が入っていて、歌と踊りと笑いと涙が感動のエンターテイメントを作り出していて、普遍的なテーマを通してドラマチックに壮麗な一大叙事詩の見事な作品である。
この映画が良かったため、この監督のフィルモグラフィー調べたら「炎のアンダルシア」以前の過去作品には多くの映画タイトルがあって、どれ1つ国内では円盤化されていなくて見る術がないのが非常に残念である。特にベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞している79年製作作品「アレキサンドリアWHY?」など見てみたい…。きっとYouTubeには落ちていると思うが。その年の審査員長がイザベル・アジャーニでプレゼンターがジャンヌ・モローと、とんでもなく自分の好きな女優が活躍していたのでメイキング映像を見てびっくりした。席にはゲイリー・オールドマンの姿もあったしスタンディングオベーションで大喝采だった。
その年のパルムドールに輝いたのはキアロスタミの「桜桃の味」と今村昌平の「うなぎ」である。ところが翌日の新聞を賑わしたのは特にフランス紙のル・モンド紙はシャヒーンの「炎のアンダルシア」を大絶賛していた。とりわけイスラム原理主義に反対する作品は大いに絶賛されるのだろうヨーロッパでは。特に世界の文化の都アンダルシアと言われている位らしい、自由思想が危険視されるのがどうしても好まない人たちが新聞社にいるのはもはや当たり前のこと。
さて、物語は中世カリフ統治下のアンダルシア。哲学者アベロエスの思想が危険視され、焚書の運命にさらされる。自由な思想と本を救おうとするアベロエスを慕う人々。彼らの命を賭けた戦いが始まった…と簡単に説明するとこんな感じで、 12世紀も終わりに近いイベリア半島の現在のスペインの南部反がアンダルシアと呼ばれ、イスラム帝国ムワヒッド朝カリフ・マンスールの統治下にあり、カリフの宮廷のある首都コルドバは、西ヨーロッパの文化の中心地でもあって、理性と自由を愛する哲学者阿部アベロエスは、先代カリフの時代から宮廷医師と大法官を務める重要人物で、当代きっての知識人である。
アベロエスとその家族、カリフ・マンスールと2人の王子、緑服の原理主義者たちとそれを背後で操る富豪や人々と様々な人物たち主に4つの集団に分けられ登場人物が本を救おうとする人々の物語と原理主義セクトに洗脳される王子たちの物語や恋を描いたり愛の物語などを重層的に展開させる映画に仕上がっている。正直、俺が思うにこの映画は時期が少しばかり早すぎたような感じがする。97年に監督された作品だが、もしこれが2001年9月11日に起きたニューヨークの世界貿易センタービルを襲った9.11以降にもしとられていたら確実にカンヌ国際映画祭でパルムドール賞を受賞していたに違いない。
まさにこの映画で描かれているイントレランス(不寛容)から自由な思想を守る、自爆テロそれはイスラムとテロリズムを結びつけるイスラム社会において多様な価値観の共存は不可能と言うのを世界に知らしめた事件であるし、現代社会の課題を直視させた作品なので、十中八九受賞は確定していたと感じる。「炎のアンダルシア」と言うのは日本側と監督が意見を出し合って決めたそうだが、原題名は「アル・マシール」つまり"運命"と言う意味である。まさに9.11の運命と重なってしまうのだ。まるで、本作の冒頭での火破りのシーンで始まる強烈さは、ビルに突っ込んだジャンボ機が爆発して燃える炎の中を苦しみ死んでいった人々を彷仏させるようなまさに予言の書的な映画に感じる。
それこそ今ではイスラム諸国での宗教的理念を強調した女性の顔を隠すヴェールなどの強制は弱まってきたが、変わらず若者たちのフラストレーションは解放できておらず、そういったのがテロへとつながり、個人の思想の自由をおかしくし、イスラム勢力へと走ってしまう現状は全く変わっていないように感じる。普遍的ヒューマニズムとは一体何なのか、理性と個人主義が民主主義の価値として果たしてあるのかなど様々な事がこの映画から伝わる。しかしながら本作に出演している女性たちは皆顔隠すようなものをしていない。これは当時の政権に対しての渾身の一撃を与える監督の皮肉なのだろう。
それにしてもイスラム教徒移民の排除や排他的思想が完全に間違っていると言う風には私個人はそうは思わない。これ以上イデオロギーの話はしないが、本作に向けられているのは普遍的なヒューマニズムの価値であった。これは正しいことだと感じるし、回復する必要があると思う。話は変わるが、やはり映画に関してはフランスは素晴らしい仕事をすると思う。同じく90年代ではベトナム映画(フランス資金援助によりフランス合作映画になっているが) トラン・アン・ユン監督の「青いパパイヤの香り」や黒澤明の「乱」などもフランスのサポートによって制作が順調に運ばれた作品で、本作もフランスのサポートがあって作られた。シャヒーン監督の前作「移民」(私は見ていないが)彼のインタビューによると、検閲当局が上映許可を与えた映画だが、当時この作品を見た原理主義者の弁護士が劇中に現れる預言者を映画に登場させたと言うことで告訴し、1年間の上映が禁止されたと言っていたが、炎のアンダルシアがフランスのサポートがなければ作れる事はなかったと言っているほどだから、いかにフランスのサポートが重要なのかを垣間見れるインタビューであった。
ちなみにこのインタビュー記事が、DVDパッケージの中に入っていたのだが凄く監督が攻撃的にフランス側の取材に応じていて読んでいて楽しい。例えばインタビュー者が映画での最後のシーンでせっかく残っていた自分の本の最後の1冊を自ら火に投げて燃やしてしまう行動の意味はと聞くと、監督は思想の羽ばたきは誰にも止められないと言う意味ですよ。そんな質問するのは、冗談で私を殺す気だからかね?私は構わないが、私と一緒に映画を作った私の弟子たちや俳優たちや、撮影監督なんかに聞くときは気をつけた方がいいねなど様々ある。その記事を読んで改めて頭に浮かんだのが、映画の冒頭でフランス人たちが本を焼くシーンが登場する場面である。西洋での不寛容に対する批判的な事柄がきっとあるのだろう。
ここで少し話は戻るが、やはりカンヌ国際映画祭で翌日の新聞でもこの作品を大きく取り上げていたのを見ると、審査員長がいちど決めた作品は絶対に動かすことができないんだなと感じた。それは1987年にモーリス・ピアラ監督がパルムドール賞に輝いた「悪魔の陽の下に」と言う映画があるのだが、これは観客からは大ブーイングで、当時の監督が壇上に上がってあなたたちが私に中指を立てるなら私もあなた達に中指を立てる(記憶が曖昧だがそういったニュアンスで確か反撃していた)と言っていたことを思い出す。やはり審査員長とは別の審査員数人がどうしてもこの作品を押したいと言う場合にパルムドールでもなくて特別審査員賞的なのを受賞させるのはこういった事柄があるんじゃないかなと思った。数年前の「アデル、ブルーは熱い色」でも主演の2人の女優が女優賞としてパルムドールをそれぞれに与えられたのもそういう事柄があるだろう。確かその時の審査委員長ってSteven Spielbergだったか、ちょっと調べてないから違うかもしれないが、彼だったらそういうのをしかねないし。逆に違う人が話し合いをつけて与えた可能性だってあるが。
この監督、東京国際映画祭のヤングシネマ審査委員長として来日していたらしく、彼の作品も劇場公開が数本しているようだ。残念なのはメディア化されてないと言うことだ。長々とレビューを書いたが、炎のアンダルシアに登場する主な15人の人物のそれぞれの位置を把握しつつ鑑賞するのと、ある程度のアンダルシアにおいての歴史、アラブ諸国への関心を持ってみることをお勧めする。最後にこの映画を見るにあたってここだけは押さえた方がいいと言う言葉を言うと、まずはモスク、シェイフ、カリフ、コーラン、コルドバ、カーディー、シャリーア、十字軍、セクト、ファトワ、アミール、アンダルシア、アラルコスの戦い、アベロエス、ムワヒッド朝、マンスール等である。