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人生劇場 飛車角のotomisanのレビュー・感想・評価

人生劇場 飛車角(1963年製作の映画)
4.0
 後年、橋本治がイチョウの紋を背負って「止めてくれるな」と見得を切った相手はおっかさん。これはほかに言い置く女がいないからである。
 それを去る半世紀前、飛車角が小金の親分の仇、奈良平を討ちに向かうその足に縋りつくおとよに告げるのは「おれも好きだ」

 意外にも人情をこころに留め置いて白刃の下をくぐろうというのは、4年前、小金一家の果し合いに客分として加わり相手の親分を討ち取った飛車角からさらにおとよまで譲られた高倉の負い目の痛みを分かればこそ。
 無論そんな事情がないならないで、義理ひとつで奈良平のいのちを頂戴しに行くのだが、おとよの身を引き受けながら渡世人を捨てられなかった高倉に飛車角は自分の分身を感じるのだろう。
 だから飛車角も、「男」になって死んだ高倉の心残りを晴らさずにおとよに向かい合うわけにはいかない。そこが、同じおとよを好いていながら、義理を立てて死んだ高倉への答礼、弔いのありようなのだろう。
 ただ、飛車角はなんとしても奈良平を討ちかつ、生きておとよの元に帰らねばならない。それが、吉良の浜で高倉に告げた「おとよをしあわせに」との約定の、高倉が斃れいまや宛先喪失で出戻ってきたのを自ら叶え、高倉の霊前に「あとは引き受けた」と報告できることになるのだ。

 二つのこころに重なるこころがいづれも恋だから厄介だ。義理に割かれて散った高倉、義理ゆえに恋を成就させたい飛車角のそれでも死地に赴かなければならない。
 こうして、書き連ね「渡世」の「義理」のといいながら、半分以上は「惚れた」の「腫れた」のである。思えば、吉良の浜勝にねじ込んで約定書を取り付けたのも、奈良平討伐も遂に荒事の本領はお預けだ。こんな奇妙な飛車角の日々に監督は人のこころの求めるところ、愛情にこそ人の幸福への鍵があり、それが義理に割かれてどうしようかとの惑いがあるのではないか。そう思うとき、この話の見応えは特別な様相で感じられてくる。
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