かーくんとしょー

アニー・ホールのかーくんとしょーのネタバレレビュー・内容・結末

アニー・ホール(1977年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

令和最初の映画鑑賞は、かの名高い「アニー・ホール」をUーNEXTで。
監督兼俳優という作り方への忌避感で遠ざけていた作品だが、心機一転の意味も込めて。

作品構造は、コメディアンの主人公・マックス(アルヴィー)の一人語りで、忘れられない女についての回想譚。
時折、メタ的な発言や時空を超えての対話(例えば過去の自分と現在の自分の対話など)があり、映像作品としての強みを存分に見せつけている。

とはいえこのような技法に惑わされる必要はなく、つまるところこれらの現実にはあり得ない光景は、〈信頼できない語り手〉マックスの現在時点の一人称視点によって統合された心象に過ぎない。
鑑賞者はマックスによって多分に恣意的に選別されたエピソードに付き合いつつ、時には批判的に彼を見ることも必要となる。

彼(もしくは彼ら)の発言は、小賢しいユーモアやウィットが上部を飾っている。
それをお洒落だと捉える鑑賞者もいるだろうが、極めてアメリカ的なお洒落であることも了解しておかなければならない。

というのも、この映画の馬鹿げたやり取りで笑える理由は、発言そのものの面白さではない。発言の一つ一つは、登場人物たちの強烈な自我が〈真っ直ぐ〉に表出しているに過ぎず、そこにアイロニーは存在しない。
つまり「彼はひねくれ者ではないが故に救いがない」ーーそう外部の鑑賞者が嘲える仕組みこそが、本作の持つ最大のアイロニーなのだ。

思うに、アイロニーというイギリス的なひねくれは、直情的なアメリカ人と極めて相性が悪い。実際に劇中のマックスの漫談も、ユーモアはあれどアイロニックとは言えない。
ウディ・アレンはそれを逆手にとって、アメリカ人のマックスの発言をアイロニックなものにするのではなく、作品全体を一つのアイロニーに仕立てあげた点に新規性がある。

真剣な登場人物たちが織りなすドラマを、外部から見て小馬鹿にして笑う。
かつてチャップリンがたった一人で成し遂げたことを、本作はメタ的に鑑賞者を巻き込むことで成立させている。
良い悪いや、前進か後退かといった価値判断を当てはめることは難しいが、この新規性こそ本作を映画史に名を残す作品たらしめている要因ではなかろうか。

ただし最後に個人的感想を付け加えるなら、アメリカ人的なうざったい直情を散々見せつけられた後の、走馬灯のような感傷的なエンディングには全く感情移入できなかった。
こういう馬鹿げた喜劇男には、作中で相応に皮肉な裁きを用意してほしくなるのは、島国根性でイギリス人と親和性があると言われる日本人の性だろうか。

written by K.
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