Keiko

いまを生きるのKeikoのネタバレレビュー・内容・結末

いまを生きる(1989年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

田村隆一は、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という感情を、それでもやはり言葉を使い、詩という形で世に放った。
言葉はただ意思疎通を図るための道具ではない。言葉は心を伝える媒介者だ。だからこそ、人は言葉で傷付き、言葉で愛し、言葉によって殺される。
それを伝えるために、キーティングは教科書の『概論』を生徒自身に破らせ、あらゆる角度から詩の素晴らしさを教え続けた。
それは、なにも「芸術家たれ」と鼓舞し、生徒たちにボヘミアン精神を植えつけようとするためではなかったはずだ。

しかし、そんな思いとは裏腹に、ニールは言葉から逃げてしまった。彼が最も想いを伝えるべき相手は父親だった。
彼は、どれだけ話しても聞いてもらえない、逆らえるわけがないと思い込み、最初から父への言葉を押し殺してしまった。詩や演劇に心を動かされてはいたものの、本当の意味では“言葉の力”を信用しきれていなかったんだ。
そして彼は、言葉を放たずして死を選ぶ。

キーティングの伝えたかった想いを、最も理解しなかったのはニールなんだ。
「いまを生きる」ということは、単に過去や未来に囚われずに生きるということではない。
「死にたい」と強く望んだ人間が、それでもなお生き続け、「あの時死ななくてよかった」と未来の自分に思わせることができたなら、それは精一杯“いまを生きた”証ではないだろうか。

ニールの死を「いまを生きた結果」と捉えるのはミスリードだ。「今」ではなく「未来」に絶望したニールと、ラストシーンで「未来」を恐れずに机に登った死せる詩人の会のメンバーたちとは、大きな対比になっている。
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